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福島県会津若松市神指町本丸

 

慶長4年(1599)1月、徳川家康は豊臣秀吉の遺志を破り、徳川氏と伊達、福島氏らとの婚姻の約束をした。このため毛利輝元、上杉景勝、前田利家、石田三成らは家康と対立した。しかし3月、前田利家が死去すると、徳川家康の野望は公然としたものになっていった。

石田三成と近い上杉景勝、直江兼続は、徳川との戦を想定し9月頃からその準備に入った。慶長5年(1600)2月、景勝は福島県中通り地方の諸城普請を春から夏までの間に済ませるように指示した。この時期にはすでに向羽黒山城の改修は終了しており、若松城にかわる新城の築城を命じた。

若松城では、城下を拡張する事が出来ない事や、若松城の近くには小田山があり、大筒を用いた近世の戦いには不向きと考えたと思われる。また豊臣氏の中では以前より中央の大坂城、西の広島城、東の神指城との計画があったと考えられる。3月、家臣団や常陸の佐竹義宣の家臣300人の応援を受け、築城を開始した。

4月、家康は兼続に対し、上洛の催促と諸城の改修理由について質問状を出す。このときの返書が有名な直江状である。家康は兼続の返書に激怒し会津進攻を決意し、5月、家康は諸大名に会津征伐を命じた。同月、会津では神指城の二ノ丸の工事を、領内の人夫約12万人を動員し開始した。6月には神指城の本丸と二ノ丸の土塁と石垣、水堀と門が完成する。

しかし同月、景勝は神指城の築城を中止し、家康に対する臨戦態勢を命じた。特に白河、栃木藤原町の横川、福島に家臣を派遣し、城の改修を指示している。

7月、景勝は白河口からの城塁修築を急がせた。これらの防塁跡や陣跡は、現在、白河市石阿弥陀地区、長沼町の勢至堂峠堂谷坂、天栄村の馬入峠、栃木県藤原町の横川、会津若松市の安藤峠、伊達郡桑折町の西山城に土塁や堀跡が残っている。

神指城は、その平面図からすると、若松城の2倍、約55haの面積を有し、毛利輝元の広島城に近い形をした本格的な近世城郭を目指していたようだ。総石垣の城郭であったようで、石は東山の天寧から運んだ。

石垣は、本丸部が東西100歩、南北170歩、塁の幅が6丈(役18m)、高さ3丈5尺(10.5m)あり、東、西、北に門が開き、四方を石垣で囲み、23歩の濠が廻っていた。二の丸部分は、東西260歩、南北290歩、塁の幅9丈(27m)、高さ2丈5尺(7.5m)、四方に門が開き20歩の濠が廻っていた。現在残る土塁は、本丸が、北側で高さ7.5m、幅は37m、二ノ丸は高瀬の大木部分で、高さ5.2m、幅43mある。

関ヶ原の戦いでは西軍が敗退したため、神指城は完成を見ることなく破却され、上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封された。その後、破却された神指城の石垣は、若松城修築に使用されたといわれている。