福島県会津若松市河東町八田字大野原

 

国道49号線を猪苗代町から会津若松市へ向かい進むと、市との境界の位置から南へ入る小道があり、これがかつての会津若松城下への入口で、滝沢に続く旧道である。

この地が戸ノ口で、会津藩士と新政府軍の激戦の地の一つである。この地から旧道を進むと、各所に戦死者の墓、供養碑があり、激戦の様子がうかがえる。

会津藩士の遺体は、戦後も弔うことを許されず、野ざらしにされた。その後、山野に朽ち果てた会津藩士の遺体を哀れに思った村人達が、その遺骨を集め塚を立て供養した。

慶応4年(1868)8月22日、母成峠の藩境を突破した新政府軍は、怒涛のごとく猪苗代湖畔の要衝「戸ノ口十六橋」に殺到しこれを占拠した。

また、別働隊は湖を渡り笹山への襲撃に成功し、この両面作戦で挟み撃ちを受けた会津藩守備隊は苦戦を強いられた。

急遽、松平容保警護の白虎隊士中二番隊が滝沢本陣より派遣された。会津藩士は戸ノ口原の小高い山に塹壕を掘って待ちうけ、十六橋を渡って進んできた新政府軍と激突した。

しかし、会津藩守備隊に対し、数倍の兵力と、優れた武器を持つ新政府軍は優勢に戦いを進め、孤立無援のなか討ち死にした藩士も多く、派遣された白虎隊士中二番隊も後退した。白虎隊の20名は、弁天洞穴をくぐり、飯盛山へたどりつき、そこで多くの者が自害する悲劇につながっていく。

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