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福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉

 

会津若松市河東町の藤倉集落の東に、源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑がある。源義経の恋人である皆鶴姫の伝説は、奥羽各地に残っているが、この会津の地に伝わる話は次のようなものである。

皆鶴姫は、二位大納言藤原成道の側室桂の娘で、父が亡くなった後、母は姫を連れて、一条堀河に住む兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後室となった。

時は平安の末期、平治の乱で源義朝が平清盛に破れ、義経は洛北の金剛寿会院鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗っていた。承安2年(1172)、義経は京都を出て熱田神宮で元服、義経と名を改め奥州の秀衡をたずね、そこで過ごした。
その後、承安4年(1174)、義経は京に戻り、山科にあって平氏の動向を探っていた。そのうちに、文武二道の達人、鬼一法眼のことを聞き、彼の持つ兵法書六韜(りくとう)の書等十六巻をどうにかして見たいもの考えるようになった。法眼のもとに押しかけ時期を待ったが、どうしても見せてもらえない。

そのうち、義経は鬼一法眼の娘の皆鶴姫と恋仲になり、姫に話すと、姫は六韜の書を持ち出し、義経は密かに書き写すことに成功した。しかし、京での義経の行動が清盛に察知され、義経は危険を察し奥州に走った。

これを聞いた皆鶴姫はおおいに驚き嘆き、遂に意を決し、安元元年(1175)8月、義経の後を追った。苦労の末にこの藤倉の地までやってきたが、疲労困憊のあまり、とうとう病に倒れてしまった。

村人達の手厚い看護により、病は快方に向かったが、翌安元2年(1176)の春、姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き悲しみ、池に身を投じてしまった。18歳であったという。

この時義経は、御山の会津の領主、河辺太郎高経の屋敷にあり、姫の死を知ってこの地にかけつけ、池のほとりに墓を造り、自ずから卒塔婆を書いて供養した。法号を安至尼という。村人達は、皆鶴山難波寺を建立し、冥福を祈った。

後世会津藩主は、一夫の役を免じて堂宇を置いた。義経に再会できず亡くなった皆鶴姫は、他の人には、このような別離の気持ちを味合わせたくないとして、参詣する人には良縁を授けると今日でも信じられており、参詣する人が多いと云う。