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福島県北塩原村桧原

2012/10/31取材

 

別名:小谷山城

桧原城は、小谷山城ととも呼ばれており、天正13年(1585)に、米沢城主伊達政宗によって築城された。築城当時は桧原湖は存在せず、明治期に磐梯山の噴火により桧原湖ができ、城址の一部は湖中に沈んでいる。

湖水面からの高さ約130m、標高954mの小谷山山頂に本郭があり、山麓と湖水面下に外堀の外構えがある。本郭を中心に、北に堀切で区画され木橋が架けられていた二の郭があり、南に三の郭が配されている。三の郭の南側には三重の空堀が設けられ、本郭南側には、複雑な迷路状の枡形虎口が設けられている。

桧原城には外構えと呼ばれる外郭部分を山麓に配置しており、伊達勢の多くは普段はこの外構えに駐屯していたと考えられる。しかし現在は、土塁の一部と馬出部を残し、その多くは湖中に沈んでいる。

桧原地域は、葦名氏被官の穴沢氏が支配していた。この地は、米沢の伊達氏領と境を接しており、伊達晴宗の時代から度々の侵攻を受けていた。永禄年間(1558~70)に、伊達輝宗は2度この地域を攻めたが、穴沢俊恒、俊光父子によって撃退された。

天正12年(1584)11月、伊達氏家督を継いだ政宗は、穴沢氏の一族を調略するなど周到な準備を重ね、桧原峠より侵入した。一族の裏切りもあり、ついに穴沢氏は敗れ、一族悉く伊達勢に討たれ、桧原は伊達氏が支配するところとなった。

この地の5kmほど南には、葦名氏の柏木城があり、伊達政宗はその抑えとしてこの城を築き、城番として後藤孫兵衛信康を置いた。信康は約4年間この地にあり、葦名勢の度々の襲来をはねのけながら、その後の摺上原の戦いに備えて行く。

天正17年(1589)、摺上原の戦いに勝利した伊達政宗は葦名氏の黒川城に入城した。