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福島県会津若松市一箕町八幡字弁天下

 

飯盛山の白虎隊士の 墓の近くにある石柱の碑は、昭和3年(1928)ローマ市が白虎隊士の精神に対して、ローマ市民の名で贈ったもの。

この碑の円柱部は赤花崗岩で、ベスビオス火山の噴火で埋没したボンベイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。

この基石表面には、かつてはイタリア語で次のように書かれていた。「文明の母たるローマは、白虎隊士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ塔章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる先年の古石柱を送る」「武士道の精神に捧ぐ」

しかしこの文面は、第二次世界大戦後、占領軍の命令により削り取られた。

 

・フォン・エッツ・ドルフ氏の碑

昭和10年(1935)、ドイツ大使館外交官のエッツ・ドルフ氏が、白虎隊精神を賛美し、この碑を贈った。碑文には「会津の若き少年武士に贈る」とあり、十字章が刻まれていた。

第二次世界大戦後、アメリカ進駐軍の手によって碑面が削り取られ撤去されていたが、昭和28年(1953)再刻復元された。

これらの時期は、日本は満州の権益をめぐり、ロシアと対立し、軍部が台頭し、国際的にも孤立を深めていた。イタリアは、第一次世界大戦後の国内の混乱から、ムッソリーニが率いるファシスト党は多くの国民の支持を受けて、昭和元年(1926)には一党独裁体制を確立し、ドイツもまた、昭和8年(1933)には、アドルフヒトラーが率いるナチスが政権を奪取し、国際的に孤立していった。

このような時代状況の中で、日本とイタリアとドイツが接近するのは時代的な必然であったと思われる。昭和11年(1936)には、ロシアに備えた日独防共協定が結ばれ、翌年には日独伊防共協定、昭和15年(1940)には日独伊三国同盟が成立する。

この地の二つの碑は、日本が太平洋戦争へと入っていく歴史の「遺構」ではあるが、この碑で顕彰されている「白虎隊」の精神は、現代の若者達にも求められる、歴史を越えた普遍性を内包しているものと思う。