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福島県会津若松市神指町字黒川

 

寛永12年(1635)、この薬師河原の地で60余名の切支丹が処刑された。後年、この地の言い伝え通り、犠牲者の埋骨と思われる人骨が見つかり、昭和37年(1962)、供養の塚が建てられた。

会津にキリスト教が広まったのは、切支丹大名であった蒲生氏郷が会津の領主となったことが大きい。猪苗代には教会が建てられ、約8割が切支丹の信者となり、若松では3割が信者だったといわれる。豊臣秀吉はキリスト教を禁じてはいたが、まだその取締りは緩やかだった。

しかし、江戸時代に入ってからは、その取り締まりは厳しくなる一方で、加藤嘉明の代には、切支丹は踏み絵や改宗を余儀なくされ、改宗しない者は磔や火あぶりとなった。加藤明成が会津藩主のときに、取り締まりはさらに厳しくなり、寛永12年(1635)、会津の切支丹の中心人物であった横沢丹波が、旧田島町水無の屋敷で捕らえられ、その一族と、屋敷の二重壁の中に匿っていた外国人宣教師もまた捕らえられ、この地で逆さ磔や斬首に処せられた。

これ以降、会津でのキリスト教信仰はかげを潜めるが、江戸時代を通して、長く隠れ切支丹として信仰が続けられた地域もあったようだ。このような地域には、今もマリア観音と称される石像や、目立たないように十字を彫った墓や地蔵などが見られる。