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福島県会津若松市東山町石山…会津武家屋敷

 

西郷四郎は、明治時代の講道館柔道の達人で講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルとなった。

慶応2年(1866)2月、会津藩士志田貞二郎の三男として会津若松に生まれた。16歳のときに、会津藩の家老だった西郷頼母の養子となった。

西郷頼母は文武に長じた人物だったが、特に甲州流軍学を極め、合気術の秘伝を受け継いでいた。会津藩にあっては、合気術は城中に深く秘められ、側近の重臣と奥女中のみに教授されたと云う。

四郎は非凡な運動神経の持ち主だったといい、頼母は四郎にこの合気術を伝授したと考えられる。四郎は投げられても。地に着くまで身をひるがえす柔軟さの故に「猫」と呼ばれたというが、これらは頼母の合気術が基本にあったからと考えられる。

明治15年(1882)に上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校に入学、柔術を学んでいる間に嘉納治五郎に見いだされ講道館へ入った。明治19年(1886)の警視庁武術大会で、講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより、講道館柔道が警察の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。

西郷の得意技「山嵐」は、嘉納治五郎をして、「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。明治22年(1889)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、翌年『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔し、以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じた。

明治35年(1902)、長崎で『東洋日の出新聞』の編集長を務める傍ら、柔道、弓道を指導し、また、長崎游泳協会の創設に関わり、日本泳法を指導した。

大正11年(1922)12月、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。56歳だった。没後、講道館から六段を追贈された。