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福島県会津若松市河東町南高野字高塚山…日新館

 

会津若松市に復元された、会津藩校日新館前に、日新館出身の山川健次郎の像が建てられている。

山川健次郎は、嘉永7年(1854)、会津藩家老山川尚江重固の三男として会津若松に生まれた。幼少より聡明にして、わずか9歳で藩校日新館に入学、就学3年目の12歳で最優秀組に昇級するほどの英才ぶりを発揮した。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では白虎隊士として城下や篭城戦で奮戦した。しかし戦に破れ、落城後猪苗代に謹慎中に、会津藩士秋月悌次郎らの計らいで寺小姓に扮し、秋月の昌平黌時代の親友である長州藩士奥平謙輔を頼って会津を脱し、越後にいた奥平の書生となった。

その後、北海道開拓使次官黒田清隆の推挙により渡米し、エール大学に留学、物理学を専攻し学士号を取得した。

明治8年(1875)に帰国し、翌年東京大学の前身の東京開成学校の教授補となり物理学科を担当、若干26歳で教授となった。わが国で始めてのX線の照射に成功するなど、物理学の基礎を築き近代科学の先駆者として高名を馳せ、わが国初の理学博士となった。

明治34年(1901)、48歳で東京帝国大学総長に就任、続いて九州帝国大学、京都帝国大学の総長なども務め、東北帝国大学の設立にも深く関与するなど、わが国の高等教育制度の確立と大学の自治に尽力した。

東京を中心に活躍していたが、常に故郷の会津や会津松平家を心にかけ、明治35年(1902)頃には、賊軍として官軍側の長州藩の対極にあり困窮の極にあった会津松平家の救済に尽力した。仙台藩出身の日銀総裁だった富田鉄之助 らと計り、孝明天皇からかつて、会津松平藩主の容保に与えられた「万が一という時には会津だけを頼りにしている」と書かれた御宸翰を楯に、会津を逆賊として討った薩摩、長州藩にこそ非があったのではないかという、戊辰戦争の正義の危うさを突き、会津松平家の救済に成功した。

物理学に精通したという立場からか極めて現実主義者であり、妹の大山捨松ら留学生の多くが洗礼を受けた中、最後までキリスト教に対しては懐疑的であったと言われる。

また「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていることが多いが、本人は極めて現実的で、 明治3年(1871)に国費留学生としてアメリカに向かう船中でカレーライスを食べたが、カレーライスを選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレールーはすべて残したと 後年語っている。

昭和6年(1931)6月、東京にて逝去した。享年78歳だった。