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福島県会津若松市建福寺前

 

建福寺は、信州高遠に開創され、当時高遠城主だった武田勝頼の菩提寺だったが、後の高遠城主の保科氏の菩提寺ともなった。この地の建福寺は、寛永20年(1643)、信州建福寺から、鉄舟和尚が供奉し南町河原に開基したのが始まり。延宝8年(1680)現在地に移り、堂塔伽藍が建立され、藩からも寺領が与えられ、以来士族の寺として隆盛を極めた。

戊辰戦争の際には、長岡の戦いで破れ、会津に落ち延びてきた長岡藩兵が駐屯し、長岡の戦いで負傷し、会津への途中没した長岡藩の家老の河合継之助が葬られた。

しかしその後の激しい戦いの中で建福寺の堂宇は全て焼失し、会津藩は敗れ青森県の戸南に去り寺は荒廃した。明治3年(1870)、鶴ヶ城御殿の建物に使用されていた木材を使い再建された。

境内のシダレザクラの双幹の古木は、会津藩主の手植えと伝えられ、市指定の天然記念物になっており、三方向へ枝を広げ、春には今も美しい花を咲かせる。

墓地には、会津藩時代の多くの藩士たちの墓石があり、また島原藩主の弟の松倉右近太夫重頼の墓もある。