福島県本宮市青田字茂庭

 

この付近一帯は、天正13年(1585)11月に人取橋の合戦が行われた地で、この戦いで、伊達方は420名余が討ち死にした。この功士壇には、これらの戦死者が合葬されている。

また茂庭(鬼庭)左月良直の碑は、文政11年(1828)、子孫によって建てられた。

鬼庭左月良直は武勇に優れ、伊達晴宗に重用されて一門衆にまで列せられた。晴宗の死後は隠居し左月斎と号した。人取橋の戦いでは、73歳の老齢にもかかわらず、伊達政宗から指揮を任され、金色采配を賜ったという。

政宗は本宮観音堂山を本陣とし、鬼庭左月は、亘理元宗、国分政重、留守政景、原田宗時らとともに主力部隊の4千を率い、本陣の前に陣をしいた。この時、鬼庭左月は高齢のために重い甲冑が着けられず、黄綿の帽子を着けていたという。

伊達勢は総勢8千に対し、佐竹氏、葦名氏らの連合軍は約3万で、佐竹義重率いる連合軍の主力は、伊達本陣を目指しこの地に進出、伊達勢との間で激戦となった。戦いは一進一退で互角であったが、数に圧倒する連合軍は次第に優勢となり、伊達勢は本陣の観音堂山に引き上げ始めた。

襲いかかる連合軍に対して、鬼庭左月は殿軍に名乗りを上げ、わずか60騎ばかりを率い、迫り来る連合軍に突撃し、縦横に戦い、政宗が撤退する時間を稼いだ。しかし、その乱戦の中で、岩城氏の家臣窪田十郎に討ち取られた。この戦いを乗り切った伊達政宗は最大の危機を脱し、その後南奥制覇に大きく飛躍する事になる。

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