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福島県会津若松市門田町黒岩舘山丙

 

田中玄宰(はるなか)は、会津藩の名宰相として名高い、田中正玄四世の孫にあたる。五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時、34歳で家老に任じられた。

当時、会津藩の財政は逼迫しており、藩士俸禄の借上げも行ったが、財政は悪化の一途をたどり、累積した借金は安永元年(1772)で57万両にものぼっていた。また、藩士の学問所の郭内講所も廃れ、藩士の士気も弛緩していた。

さらに天明の大飢饉が起こると、玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、病と称して家老職を辞した。天明の大飢饉は3年間続き、すでに危機的状況にあった藩財政に深刻な打撃を与えた。事態を打開するため、天明5年(1785)、容頌は引退していた改革派の田中玄宰を家老に再登用した。

玄宰は、改革大綱を建議し、容頌のバックアップの下、藩政改革を断行した。改革は、農村振興、殖産興業による財政基盤拡大はもちろん、会津藩士の気風に大きな影響を与えた藩校日新館の創設、藩士の身分制度の改革、各家老の責任の明確化など多岐にわたるものだった。中でも人材登用を積極的に行い、改革の中核となった藩士約10名のうち、上士出身は玄宰を入れても2名で、残りは中士、下士であったと云う。

容頌の死後、六代容住(かたおき)は病のため治世わずか4ヶ月で死去、その後を継いだ七代容衆(かたひろ)は僅か3歳だった。玄宰は幼君を補佐しながら、引き続き改革を推進した。

文化4年(1807)、幕府は南下するロシアの脅威に備えるため会津藩と仙台藩に蝦夷、樺太の警備を命じた。玄宰は出兵の部署を定め、翌文化5年(1808)1月、雪の中藩士を送り出した。この出兵中、藩士の帰還を待たず、同年8月、玄宰は61歳で死去した。その後の会津藩の改革は、樺太から戻った軍事奉行の丹羽能教に引き継がれることになる。

会津藩と自ずから創設した藩校日新館に強い愛着を持っていたようで、「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言したと云い、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にある。