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福島県会津若松市門田町黒岩舘山丙

 

小田山城址の二ノ郭にあたる平場に、丹羽家歴代の墓があり、ひと際大きな墓石が会津藩家老の丹羽能教の墓である。

丹羽能教は、5歳で母を、10歳で父を亡くし祖母の家で養われた。幼少から文武に秀で、長じては特に兵法に詳しく、また経済面にも知識が深かった。
安永4年(1775)、丹羽家400石を継ぎ、その後、その才能を見出され、天明8年(1788)の藩政改革に際して番頭組頭となった。さらに寛政9年(1797)には家老組頭に出世した。

七代藩主松平容衆の時に、能教は先任軍事奉行になった。折りから日本の北辺をロシア船が度々 襲うなどがあり、幕府は、会津藩と仙台藩に樺太防備を命じ、能教は文化5年(1808)正月、諸隊を率いて樺太に出陣した。

さらに、文化7年(1810)には、会津藩と白河藩は、房総、相模両半島の防備を命じられ、能教は観音崎に陣屋を築き江戸湾防備の任を監督した。これらの功により、文政2年(1819)には家老となった。

また、私費で猪苗代の荒地をひらき、藩祖保科正之の土津神社の祭田に加えたが、藩主からの恩賞を断り手書の銘刀だけを拝受したという。

その後、病のため致仕を願い出たが、藩主の信はあつく許されず、肩輿に乗って城門を入ることを許されたと云う。
天保14年(1843)没、78歳の長寿だった。