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福島県二本松市長折字宮久保

震災前取材

 

別名:古館

四本松城は、口太川と安達太田川の合流地点、「蛇ヶ淵」に半島状に突き出した尾根を利用して築かれた山城。蛇ヶ淵方向から見ると断崖になっており、断崖と谷の自然地形を巧みに利用して築かれている。

北側に安達太田川が流れ、断崖を形成し、西側、南側は急斜面で守られている。南側が大手口と思われ、東側の斜面に腰郭が設けられており、北東側に堀切と物見台が残るという。頂部には20m×60mほどの平場があり本郭が置かれた。本郭平場には祠が祀られており、いわくありげな大岩が1つあり、その上に標柱が立っている。

本郭の南東麓は斜面が比較的ゆるやかで、こちら側に居館があったと考えられる。「寺屋敷」「縫方」「読方」「鍛冶屋敷」「御池」「殿の田」といった地名が存在し、南東側に城下集落があったと思われる。

天喜3年(1055)、前九年の役に従った源義家の家臣、伴次郎助兼がこの地に所領を得て、治暦元年(1065)東和町住吉山に城を築きこの地一帯を支配した。助兼は生国の摂津住吉から四所明神を勧請し、四本の松の苗を館に植えたと言われ、これがこの地方四本松の地名の由来とも云われている。

しかし文治5年(1189)、伴武知は源頼朝の奥州征討軍と戦い討死にし伴氏は滅亡、田原次郎秀行がそのあとを受けて領主となった。そして秀行の子成清(異説あり)の代に、川向かいのこの地に築城した。しかし田原氏も、長秀の代の暦応元年(1338)斯波貞持と争い滅亡した。

その後、石塔氏、吉良氏が奥州探題として居城した。応永3年(1396)、宇都宮氏広が奥州探題に任ぜられると、城地を現在の宮森城へ移し、宮森城を四本松城と称した。しかし応永7年(1400)、斯波氏、石橋氏らによって滅ぼされ、その功によりこの地は斯波氏に、その後石橋氏に与えられた。石橋棟義は城を再びこの古館に移して居城とした。

石橋氏の奥州下向は、奥州管領である斯波氏が次第に優勢になることに対して、幕府が一定の歯止めをかけようとしたからとされる。石橋棟義は奥州支配の特命を受け、奥州総大将として下向し、その後棟義は陸奥守に補任された。「陸奥守」は、奥州支配にとっては最高の官職名であり、奥州管領と同様な権力行使が許された。

しかし、奥州探題斯波大崎氏の地位が確立するにつれ、石橋氏は次第にその権勢を失い、安達郡東方を支配する在地領主化していった。

関東大乱の時期、周囲の伊達氏、白河結城氏、会津葦名氏らはさかんに軍事行動を興し、周囲の国人領主らを従えるようになっていた。このような中で、勢力を拡大してきた伊達氏は稙宗の代になると「陸奥守護職」に任ぜられ、奥州屈指の存在となっていた。稙宗は多くの子女をもって近隣諸大名と姻戚関係を結び、米沢城を拠点としてその威勢は隆々たるものがあった。しかし天文11年(1542)、稙宗と嫡子晴宗の対立から天文の大乱が起った。

石橋氏は最初は稙宗側であったが、後に晴宗側になり、天文の乱は稙宗が隠居することで終熄した。この時期、石橋氏の威勢はすでに衰え、石橋尚義に属していた大内備前義綱は尚義を圧倒するまでに勢力を張り、石橋家中でも義綱に従うものが増えていった。尚義は米沢の伊達晴宗の出馬を請い、晴宗が出馬しことを収めたがそれは一時的な対応に過ぎず、石橋氏の威勢は衰えを見せる一方だった。

尚義は、大内氏らの重臣に政事を行わせ、自身は歓楽を事としたため(異説あり)、武威は次第に減じ、家臣に諫言する者もいたが届かず、尚義は嫡子松丸の補佐を重臣らに頼み病死した。間もなく家中は分裂し、遺児松丸は、大内備前定綱、石川弾正らによって相馬へ追われ、この地は大内氏が領有することとなった。

大内定綱は本拠を宮森城(上館)に移し、四本松城には弟の大内石見を置いた。大内氏は塩松領の領主となったが、伊達政宗に一旦は臣従しながら、畠山氏、佐竹氏、葦名氏らと結び、伊達氏と対峙する道を選び、天正13年(1585)、伊達政宗によって攻められ、定綱はこの地を放棄して二本松城へ、その後会津へと逃れ、この地は伊達氏が支配するところとなった。