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福島県国見町森山字熊ノ前

 

この地は、明治17年(1884)、福島県令三島通庸による、奥州街道(東山道)の新道付け替え以前は、国見峠に向かう旧長坂道上に位置していた。

文治5年(1189)7月、源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡征討するため、全国の御家人を総動員し、28万の軍を率いて奥州に攻め込んだ。対する藤原泰衡は、17万の奥州軍を動員しこれに備えた。

泰衡は、東山道を北上する鎌倉軍を迎え撃つため、伊達郡と刈田郡との境にある阿津賀志山一帯の東山沿いに、堅固な防塁と砦群を配した阿津賀志楯を築き、異母兄の藤原国衡を大将軍とし、侍大将金剛別当秀綱以下の精兵2万騎を配してこれに備えた。

源頼朝は、8月7日鎌倉軍2万を率いて、伊達郡の藤田宿に入り、藤田城を本陣とした。畠山重忠はこの日、夜陰にまぎれて「相具する所の疋夫80人を召し、用意の鋤鍬を持って、土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の煩い有る可からず」と、防塁の一部を埋め立て、北への侵攻路を確保した。

翌8日の早朝、金剛秀綱は、数千騎を防塁の前に進め戦いを挑んだ。頼朝は畠山重忠、小山朝政、工藤行光等に命じて攻撃をかけ、激戦の末防塁を突破し、奥州勢を押し返した。秀綱は大木戸の本陣に馳せ帰り、合戦敗北の由を国衡に告げ、奥州軍を阿津賀志山防塁より大木戸防塁の線まで後退させた。

中一日おいて10日の早暁、頼朝は自ずから大軍を率い、奥州勢の守る大木戸の堅陣に総攻撃をかけた。両軍の戦いは熾烈をきわめ「闘戦の声は山谷を響かし、郷村を動かす」激戦となったが、大木戸の守りは堅く、容易に突破することができなかった。

この時、小山朝光は安藤次(あとうじ)を道案内とし、前夜に藤田宿より僅かの兵を率いて、小坂峠から山中を迂回し、大木戸の後陣の山に進み、鬨の声を挙げて矢を放った。濃い霧の中、搦手からの奇襲とあって奥州軍は大混乱に陥り、国衡以下の将兵は戦意を失って敗走し、秀綱は小山朝光に討ち取られ、戦いは鎌倉軍の勝利に終わった。