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福島県福島市飯坂町十綱町

 

十綱橋は飯坂を二分して流れる摺上川をはさみ、東の湯野と西の飯坂をむすぶ橋である。平安の頃は、十本の藤蔓で編んだ吊橋が架けられていたという。この十綱の橋は歌枕として古歌にも詠まれている。

陸奥の 十綱の橋に くるつなの 絶へずも人に いひ渡るかな   (千載和歌集)

文治5年(1182)、源頼朝率いる奥州征伐軍は白河を越え東山道を北上してきた。信夫の庄司佐藤基治は、平泉軍の前衛として城を出て迎え撃つことを決し、この橋を自らの手で切り落とし、福島南部にある石名坂に赴いた。しかし畠山重忠と伊達の祖の常陸入道念西に敗れ、その首は阿津賀志山に晒されたという(異説あり)。

その後数百年間は橋はかけられず、両岸に綱を張り舟をたぐる いわゆる「十綱の渡し」にたよった。しかし、摺上川はたびたび氾濫し、船の往還にも難渋した。松尾芭蕉がこの地を訪れたときは、この「十綱の渡し」であった。

明治6年(1873)、盲人伊達一、熊坂天屋惣兵衛は私財を投じ、寄付を募り、県に陳情して、アーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名された。しかしこの橋は半年ほどで倒壊、明治8年(1875)、宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊り橋が架けられ、「十綱橋」と命名された。しかしこれも修理続きで、伊達一は橋の安全を祈り、人柱となるべく入水自殺を遂げた。

大正4年(1915)、橋の老朽化に伴い、当時としては珍しいドイツ式の工法による現在のアーチ式鉄橋が完成した。