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福島県福島市飯坂町平野字寺

 

医王寺(いおうじ)は、福島市飯坂町にある真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。信夫郡の庄司であり、藤原秀衡に仕えていた佐藤基冶一族の菩提寺である。

境内には、佐藤基治とその子佐藤継信と忠信の墓、そして継信、忠信の母乙和(おとわ)の墓がある。また、その他にも鎌倉期の板碑が数基あり、佐藤氏関係者のものと思われる。

佐藤継信、忠信は源義経に従い、継信は屋島の戦いで義経の身代わりとなり矢を受けて討ち死にした。忠信は頼朝に追われた義経が吉野に落ち延び、それを逃がすために京都の義経の屋敷に単身戻り、鎌倉勢と戦い討ち死にした。

義経主従は、平泉に逃れる途中この医王寺を訪ね、継信、忠信の母乙和御前と会い、兄弟を弔ったという。そのとき、弁慶が残したという笈が今もこの寺の宝物殿に安置されている。

謡曲「接待」では

継信、忠信の母の乙和が、山伏接待にことよせて落ち行く義経一行を待ち受けていると、さあらぬ態でここに立ち寄った主従十二人を迎えた。初めは義経一行であることを隠し立てていた弁慶も、母尼に見破られて名乗りあい、義経の身代わりとなって戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。母尼は今は亡き我が子を偲びつつ、一行に酒をすすめ、継信の遺児鶴若もけなげに給仕して夜を徹した。義経一行は継信、忠信の父の基治を訪れ、兄弟の遺髪を埋葬して法要を営み冥福を祈った。別れの朝、鶴若は御供を乞うたが皆に慰めすかされ、涙ながら一行を見送った。

戦いで二人の息子を失った乙和御前の悲しみは深く、老母のために、継信、忠信の嫁達が武将の姿をして慰めたとの話がこの地に伝えられている。また境内には、佐藤一族が滅ぼされた後植えられたツバキがあり、継信、忠信を失った母乙和御前の悲しみにより、この椿は蕾はつけるが花が咲かずに落ちてしまうといわれている。

文治5年(1189)8月、源頼朝が奥州討伐のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、佐藤基治は一族とともに石那坂(福島市平石)に陣をはり防衛したが、鎌倉方の常陸入道念西らと戦い敗れた。

江戸時代元禄期に、松尾芭蕉はこの地を訪れ、医王寺の墓に手を合わせた芭蕉は、一族を思い涙し、句を残している。
笈も太刀も 五月に飾れ 紙のぼり  …芭蕉