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青森県藤崎町字藤崎

2012/11/04取材

現在、国道のすぐ西側の住宅地は、かつて安東氏の居城である藤崎城があった地であり、八幡宮境内も城域である。

城域は、東西約360m、南北約800mの平城で、本丸、西郭、東郭の3つの郭から構成されていた。本郭は一の郭、二の郭からなり、それぞれの郭は掘割で仕切られ、周囲には土塁がめぐらされていた。

安東氏の祖は安倍氏とされ、安倍氏は康平5年(1063)の「前九年の役」で敗れ、安倍氏の頭領の安倍貞任も討ち死にした。しかし貞任の遺児の高星(たかあき)丸は、家臣らとともにこの藤崎の地に落ち延び安倍十郎貞義と名乗った。その子である堯恒は、寛治6年(1092)にこの城を築城して居城とし、子孫は安東氏を名乗るようになったとされる。

平泉藤原氏が滅亡すると、安東氏は地方の豪族として鎌倉幕府から「蝦夷管領」に任じられ、やがて蝦夷地の物産などの交易権を手中にし、莫大な利権を持つようになった。しかし、津軽にも鎌倉御家人が派遣され、内陸の肥沃な土地の多い内3郡は鎌倉の支配地とされ鎌倉御家人たちが支配していった。

このため安東氏は、日本海岸や十三湊を含む外3郡に目をむけ、寛喜元年(1229)、安東貞季のとき、平泉藤原氏の一族であった福島城の十三秀直を萩野台合戦において破り、愛季の時本拠を福島城に移した。この藤崎城は内3郡との境であり、安東一族の安東高季の居城となった。

安東氏宗家は、津軽半島の十三湊を拠点にして盛んに交易活動を行い、十三湊はやがて日本の三津七湊の一つに数えられるくらいに栄えた。

安東氏は、土着の豪族としてその後も室町時代の15世紀半ばまでの350年あまり津軽で勢力をふるったが、その間、安東一族の内紛、鎌倉幕府の衰退と滅亡の戦乱、建武の新政から南北朝の動乱などで次第に衰退していった。

応永18年(1411)、三戸の南部守行が陸奥守に任ぜられると、南部氏はこれを機として津軽統一に乗り出し、安東氏との仲は険悪になった。南部氏は、当時の安東氏当主の盛季と婚姻関係を結んだが、嘉吉3年(1443)頃、南部政盛は安東盛季に見参のためと称し福島城に入り、奸計をもって福島城を奪取した。福島城を追われた盛季は蝦夷地に逃れ、この地は南部氏の支配するところとなった。

藤崎城は、南部氏の津軽支配の拠点として使われ、その支配は緩やかなものであったようだが、その後、南部氏一族の石川高信が石川城に入り、津軽の支配を強めていった。

しかしその頃急激に力をつけてきた大浦為信は津軽統一を目指し、元亀2年(1571)、石川城の石川高信を急襲し、間もなくこの藤崎城も大浦氏の支配下になった。為信は藤崎城に義弟の六郎や甥の五郎らを配置して重要な拠点としたが、天正13年(1585)、六郎と五郎が事故死すると藤崎城を廃城とした。