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青森県五所川原市前田野目野脇

2017/11/01取材

 

 

 

梵珠山に続くこの地は、古くから深山幽谷の地として、山岳信仰の対象となっていたとされる。磐座に安置されている仏神は、役小角の高弟の光明坊が建立したと伝えられる。

大同2年(807)、桓武天皇の命により坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地に至り、都の鬼門にあたるこの地に、80社、300余の堂宇を建て、松倉には十一面観音を祀り再建したとされる。

その後、奥州藤原氏滅亡後、金売り吉次、吉内兄弟が堂塔を再建し、承元2年(1208)には、金光上人が観音寺を再興し、聖地梵珠山は、浪岡御所の北畠氏の庇護のもと僧堂伽藍が立ち並び繁栄を極めたが、戦乱によりことごとく灰燼に帰した。

文禄年間(1592~96)、この地に松倉龍宮が再興され、津軽三大権現中山鎮守として人々に崇敬され、正保2年(1646)、津軽藩三代藩主津軽信義のとき津軽三十三観音の霊場となった。

松倉観音は、津軽最古の観音霊場にして最大の難所でもあることからご利益も絶大であるとし、宝暦年間(1751~64)には参詣人引きも切らず、小高野と呼ばれる門前町も出現した。

しかし明治初期の神仏分離、廃仏毀釈により、権現号は廃され、仏像は全て除かれ、明治5年(1872)熊野宮を合祀し、神仏混交が黙認された松倉神社となった。

現在は津軽三十三観音霊場の二十五番札所として、津軽一円はもとより遠方からも参詣人が訪れている。