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青森県深浦町深浦字浜町

2015/08/27取材

円覚寺は大同2年(807)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に、厩戸皇子(聖徳太子)作の十一面観世音菩薩を安置し、観音堂を建立したのが始まりとされる。その時、田村麻呂が兜の中に納めていたと伝えられている、影顕石守仏が、今なお、円覚寺に保存されている。

その後清和天皇の貞観10年(868)に、円覚法印が、修験道を奉じて諸国の霊山を遍歴、この地に来て観音堂を再興した。その後、その時々の領主の庇護を受け、堂宇の建立・修復がなされてきた。古くは、平泉の鎮守府将軍・藤原基衡公をはじめ、室町時代には葛西伊予守頼清が堂宇を再建している。

江戸時代になると、津軽藩の祈祷所となり、藩祖為信公が黄金の大日如来尊像を寄進し、歴代の藩主も帰依篤く、たびたび堂宇の建立や修繕をしている。

また江戸時代には津軽藩の庇護のほかに、北前船等の商人、船乗りの信仰を集めていた。この深浦の地は京・大阪と蝦夷地とを結ぶ北前航路の寄港地で、航海安全・商売繁盛を守護する観音様と、船頭・水主たちに崇敬された。

この時代は、航海中に嵐に遭うと、まずは帆をおろしたり積み荷を捨ててしまったりしたが、それでも助からないとなると、船乗りたちは自分の髷を切り落として神仏に祈願した。すると、境内の老杉の梢に光が灯り船乗りたちを導いたという。そうして助かった船乗りは、その切り落とした髷を奉納していき、それが今も「髷額」として残されている。

また、北前船の豪商・高田屋嘉兵衛が奉納した「ギヤマン玉」「シャンデリア」も残されており、御堂へ続く石段や石灯籠、土台石、古伊万里、古九谷、塗り物、蝦夷錦、青玉なども、北前船賑やかなりし頃の名残を今に伝えている。

円覚寺は、江戸時代までは、修験宗の寺として加持祈祷を行う山伏寺で、見入山観音堂は円覚寺の修行道場だった。しかし明治5年(1872)、修験道が禁止され、修験宗廃宗に伴い古義真言宗醍醐派となり、現在に至っている。

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