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青森県弘前市百沢字寺沢

2017/10/31取材

岩木山は、津軽地方のどこからでも望むことができ、岩木山をご神体とした岩木山神社は、昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた。神社の鳥居は、奥に岩木山を臨むことができ、奥宮は岩木山の山頂付近にある。

創建は古く、宝亀11年(780)、岩木山の山頂に社殿を造営したのが始まりとされる。延暦19年(800)、坂上田村麻呂は岩木山大神の加護により東北平定を為し得たとして、山頂に社殿を再建し、父の刈田麿も合祀したとされる。その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた。

寛治5年(1091年)、神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている。岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された。

天正17年(1589)、岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼し、以後、再建が進められた。江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ。特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(百沢寺本堂)や本殿が再建された。

当時は神仏習合で、社殿もまた鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる。また、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるようにもなった。

明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守岩木山神社とされ、明治6年(1873)、国幣小社に列格された。

現存する社殿や楼門は、江戸時代初期から元禄時代にかけて、代々の弘前藩主が造営・寄進したもので、本殿・拝殿・奥門・楼門等が重要文化財に指定されている。本殿は元禄7年(1694)に建立されたもので、三間社流造銅瓦葺。全面黒漆塗。拝殿は天正17年(1589)の岩木山の噴火により焼失したが、慶長8年(1603)に津軽為信により再建が始まり、寛永17年(1640)、津軽信義のときに完成した。桁行5間、梁間5間、入母屋造平入、とち葺形銅板葺。楼門は寛永5年(1628)、津軽信枚(のぶひら)により、百沢寺の山門として建立されたもの。上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の際にそれらは撤去され、階下に随神像が祀られている。

岩木山神社には、次のような伝説も伝えられている。

昔、大己貴命が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日命(イコハカミコト)を生んだという。

村上天皇の御代、丹後由良港の海賊が、その神珠を盗み逃亡した。郡司の長男、花若麿が、美女に扮して由良港へ行き、これを奪還。以後、岩木の神が忌み嫌うので、丹後の者が領内に入ると風雨になるという。津軽には丹後に対する独特の思いがあったようで、藩政時代にも、突然荒天になると、港役人は丹後船や丹後人を詮議し、領外に追放したという。

また、安寿と厨子王の話も伝えられている。

母と安寿姫、弟の厨子王が、筑紫に配流された父をたずねて旅の途中、姉弟はだまされて、丹後由良港の山椒大夫に売られてしまうが、姉弟は、当地津軽へ逃れてきた。安寿姫は岩木山の神となり、後年、厨子王は都に上り、丹後・越後・佐渡の領主となり、山椒大夫を罰して仇を討ち、佐渡で盲目となった母と再会したとされる。

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