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青森県平川市大光寺字三村井

震災前取材

 

11世紀初期から17世紀初頭までの約600年間にわたる城館遺跡。中世には津軽地方の政所的性格を有していたと思われる。

この地には、建保7年(1219)、津軽地方に鎌倉北条の被官である曽我氏が北条氏の領土得宗領の現地代官として入った。その後曽我氏は、大光寺系統と岩楯系統に分かれた。

建武元年(1334)、鎌倉幕府が倒れると、津軽に北条方の名越時如と安達高景が逃げてきて、大光寺曽我氏はこれを匿った。これに対し北畠顕家は、岩楯曽我氏、安藤氏、工藤氏などにこれを攻撃させ、大光寺曾我氏は滅亡する。

しかしその岩楯曾我氏も室町時代に至り南部氏に制圧され、南部氏に支配が移ってからは滝本播磨守重行など数次にわたり城主の交替があった。その後は津軽為信による南部からの分離独立により津軽の支配するところとなった。

津軽為信の時代に、為信の娘婿の大河内建広が居していたが、二代藩主信牧の代に、関が原の戦いで石田三成についた為信の長男、信建の嫡子熊千代が正当であるとして、熊千代を擁立する大河内氏らがこの城に立てこもった。

しかし徳川幕府の意向は、東軍に付いた信牧にあったこともあり、この乱は鎮圧されこの後廃城となった。現在、大光寺城の追手門は、弘前城北の郭北門(亀甲門)として現存し、当時のこの城の面影をしのばせる。