青森県平川市猿賀

盛美園にある御宝殿は、清藤家の位牌堂で、第二十五代当主の清藤辨吉により大正6年(1917)に造営された。

十畳敷の堂内は金箔に覆われ、両側には、河面冬山が生涯をかけてつくった三部五枚の蒔絵が堂内を豪華絢爛に彩っている。中でも、桜に孔雀の蒔絵は日本最大のもので、漆芸の最高峰のものといわれている。

御宝殿は、重層入母屋造り唐破風の廟建築様式で、内陣には鎌倉幕府執権北条時頼の側室の唐糸御前が祀られ、本尊には鎌倉時代の彫刻の金剛界大日如来が安置されている。

清藤家は、その初代を清藤次郎盛秀とし、盛秀は、鎌倉幕府五代目の執権北条時頼の家臣であった。時頼は、側室の唐糸御前をことのほか寵愛していたが、それを嫉妬する周囲の嫉視反感に耐えかねて唐糸御前は鎌倉を去る事になった。このとき時頼は唐糸との再会を約し盛秀に託した。

盛秀は唐糸を伴い海路十三湊に着き、現在の藤崎町に居を定めた。その後北条時頼は出家し諸国行脚に出たが、唐糸は時頼が津軽にくるとの風聞に接し、容色の衰えを苦にして池に身を投じて自殺してしまった。盛秀は主命を果たせなかった責任を感じ、鎌倉に帰らずこの猿賀の地に永住したと云う。

清藤家は、歴代農業を営みながら、また広い地域に亘って商売を営んでいた。清藤家に伝えられる「そろばん」の箱書には「天文十一年壬寅三月調之清藤」とあり、日本最古のそろばんと云う。

清藤家は、この地に一定の政治的な基盤を築いていたようで、田舎館城主の千徳氏とも親交があり、津軽為信が田舎館城を攻めた際には、当時の当主の清左衛門は和睦の使者に立ったりもした。

清藤家は江戸時代にはこの地の大庄屋を勤めていたが、大飢饉の際には蔵を開き米を施して村民の窮状を救い、その後も勤労を奨め、土地を開墾し飢餓に備えて米を貯え、産業を振興するなどした。

明治維新に際し、士族授産のため田地10町歩を残して没収されたが、当時の当主の清藤盛美は、青森商業銀行、尾上銀行創立に参画しやがて尾上銀行頭取になった。

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