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青森県弘前市石川字大仏

震災前取材

 

別名:大仏ヶ鼻城

この地の城は、「岩楯十三楯」、あるいは「石川十三館」と呼ばれ、13の館によって成り立っていたと伝えられる。石川城はその内の一つの中心的な城である。この石川城の北西方向の丘陵稜線に、岡館、猿楽館、月館、坊ノ館、などの十二館が、ほぼ一列に配置されていたと伝えられる。

この城は、平川左岸の半独立状の比高約50mの丘陵突端に築かれており、平川を自然の濠とした要害地形であり、また津軽平野を一望でき、軍事軍略的な要請から築かれた城砦と推測されます。現在、城跡は大仏公園として整備され、その他の館跡の多くは果樹園になっている。また三十三観音がおかれ、この地に信仰の地ともなっているようだ。

石川城は、本郭、二ノ郭、三ノ郭と腰郭からなっており、北側に大手門跡、西側に搦手門がある。現在は公園化され、周辺の館跡は殆ど果樹園となっている。。城域は東西約230m、南北約270mほどで、主郭は、東西約30m、南北約15mで、城域の南西隅に構築されている。その東側に、東西約30m、南北約45mの二の郭が配され、北東側には馬蹄形上に数段の段郭が配されている。

正慶2年(元弘3・1333)、鎌倉幕府は滅亡し、幕府の重臣であり秋田城介を称していた安達高景とその僚友の名越時如は、出羽の湊に逃れてきた。しかし出羽の在地勢力と敵対したため、高景と時如は、津軽の地頭で曾我氏宗家の曾我道性を頼り、道性は大光寺に館を築き迎え入れた。

しかし曾我氏一族の岩館曾我光高らはそれを良しとせず、翌年の建武元年(元弘4・1334)に大光寺館を攻撃、大光寺館の将兵達は持ちこたえられずこの石川城に逃れ抗戦した。その後しばらくは曾我氏がこの地を支配していたが、八戸南部氏が進出してくると曾我氏は敗れて、この地の表舞台からは姿を消した。

天文2年(1533)、三戸南部氏きっての有力者である南部高信が津軽地方に入り、平賀、田舎、沖法の三郡を支配下に置き、この地を居城とした。高信はその後石川を名乗り、石川高信と呼ばれ、三戸南部氏からこの地の支配を任された。しかしこの時期、大浦城には大浦為信がおり、津軽独立をねらっていた。

元亀2年(1571)、この当時南部氏は、南部晴政と、石川高信の子で晴政の娘婿である信直が対立し混乱していた。大浦為信はこの期に乗じ、津軽独立に動いた。為信は石川高信に接近し、石川城に近い大浦氏の支城の堀越城の改修を願い出て、石川高信はそれを許した。為信は堀越城を修築すると見せかけ、兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。そして堀越城修築の祝宴を大浦城で行う旨を高信に伝え、高信の重臣らを招いた。為信はその夜に兵を挙げ、石川城を急襲、高信は防戦したが敵わず、妻子共々自害して果てたという(異説あり)。

為信はこの城に板垣兵部将兼を置いた。その後、大浦為信は津軽統一を果たし津軽為信と名乗った。慶長5年(1600)、為信は関ヶ原合戦に出陣していた際に、板垣らが謀反を起こしたが、結局は鎮圧された。 慶長16年(1611)、高岡城(弘前城)完成後、廃城となった。