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青森県弘前市

2013/08/20取材

 

 

 

津軽平野にそびえる岩木山は独立峰で、標高1,625mである。山容は円錐形で、山頂は三峰に分かれ、弘前側から見た右側が巌鬼山、左側が鳥海山です。これらは外輪山の一部で、真ん中の岩木山はその後にできた鐘状型の中央火口丘部である。

岩木山の姿は秀麗で、裾野がなだらかに広がる様子は富士山にたとえられる。津軽地方のかなり広い範囲から眺めることができ、富士山と同様に、山そのものが御神体として崇められ、山頂には岩木山神社の奥宮がおかれている。

弘前藩では、「藩の鎮守の山」として代々藩主が寄進し、岩木山神社の堂塔の建立を行い、荘厳華麗な社殿は「奥の日光」とも言われている。

岩木山は、昭和50年(1975)に国定公園に指定され、多くの登山客や観光客が訪れる。現在は岩木山スカイラインが8合目まで通っており、山頂までは約60分から70分で登ることができる。独立峰であるため、山頂からは360度の展望が開ける。

17世紀から19世紀にかけて数度の噴火を見せ、最も規模の大きかった天明3年(1783)年の噴火では新火口を形成し、周囲に大量の火山灰を降らせ、天明の大飢饉の一因となった。

岩木山は信仰の対象でもあるため、多くの伝説が伝えられている。

岩木山の神は丹後国の人を忌み嫌うという言い伝えがある。これは、山椒大夫の話で有名な「安寿と厨子王」の伝説が、この地の岩木山信仰と結びついて出来たものだろう。

母と安寿と厨子王は、父の岩城政氏の冤罪を晴らすため京の都に旅立つが、その途中、人買いにつかまり、丹後の山椒大夫に売られた。安寿は命がけで厨子王を逃がした。安寿は艱難辛苦の末に津軽に逃れ、岩木山に分け入って神になったと云う。

安寿と厨子王の話は、もともとは仏教説話的な要素が多く、この地でそれが話されたときに、岩城と岩木のよみが同じことと、岩木山の女神が古い伝説の中では「国安珠姫」とあり、安寿との共通性からこのような話が定着していったものと考えられる。

しかしそれでも、岩木山の女神が安寿であるという話は藩政時代以前にはすでに成立していたといわれ、弘前藩二代藩主信枚は岩木山三所大権現(現岩木山神社)の山門に納められた五百羅漢の中に、安寿と厨子王の木像を作って納めている。また、領内に丹後の人が立ち入れば岩木山の神の怒りにふれるので必ず天候不順になるとして、出入りを厳しく取り締まったりもしていた。

また、次のような伝説も伝えられる。

昔この国には、山には邪神、里には姦鬼がいて、人々に大いに害をなしていた。田道将軍や阿倍比羅夫らがその平定にあたってきた。

延暦年間(782~806)には、征夷大将軍坂上田村麻呂がこれらの邪神姦鬼を征討するために兵を興し、岩木山に分け入った。兵は曼字の旗と錫杖印の戟をそれぞれ十二ずつ持って戦った。

将軍は毘沙門天の生まれ変わりで、戦に勝たないということはなかったが、ある時、兵の飲み水が足りなくなり、思うように戦うことが出来なくなった。田村麻呂は岩木山に祈り、錫杖戟を以て岩を穿つと、水が滾々と湧き出し難局を乗り切る事ができまた。

岩木山の姦鬼を退治した田村麻呂は、周囲に多くの寺社を建立し、その内の一つが岩木山神社となった。

津軽氏の古い家紋は、曼字であり、幕紋には錫杖を用いていたといわれている。この曼字と錫杖は、津軽では岩木山信仰において重要なもので、津軽氏は津軽を支配するのにその岩木山の神霊の加護を受けているということなのだろう。