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青森県五所川原市十三

2012/05/14取材

 

この地は、中世の古文書にある「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊」の一つとして数えられた地である。しかし、中央の文化圏から遠くはなれていたこともあり、伝説の中にあり近年まで顧みられてはいなかった。近年になって調査が進み、次第にその全貌が明らかになりつつある。

平泉全盛の時代、藤原秀衡の弟の藤原秀栄がこの地に住まい十三氏を名乗っていたが、幕府から蝦夷管領に任命されていた安東貞季は、寛喜元年(1229)、十三秀直を萩野台合戦で破り十三湊に進出した。

安東氏は特に海運に力を入れ、蝦夷地から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ、安東水軍などとも呼ばれ十三湊には一大都市が築かれ活況を呈したと伝えられる。中世十三湊の町並みは、東を十三湖、西を日本海にはさまれたやり状の砂嘴に形成された。広さは約55haで、中央部を南北に推定幅4~5mの道路が貫き、街の中心部の道路と交差していた。

砂嘴の北側には、安東氏居館と考えられる土塁で囲まれた十三湊の中心的な館があり、土塁の南側には、板塀に囲まれた短冊形の区画が整然と並んでいた。中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土しており、十三湊では、広く海外とも交易を行っていたことが裏付けられた。また蝦夷地との交易も盛んであったと考えられ、平安時代の終わり頃の12世紀に作られた十三湊は、15世紀後半までの長い年月を貿易港として、環日本海社会の中心都市として栄えてきた。

安東氏は、安倍氏の裔とされ、康平3年(1060)、前九年の役の際に討ち死にした安倍貞任は、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)を乳母と共に津軽へ落とし、これが安東氏の始祖と伝えられる。

安東氏は、鎌倉幕府の北条氏から蝦夷管領として諸権利を与えられた。安東氏は、蝦夷地はもちろん、樺太、蒙古、高麗、沿岸州の各国と交易を行い、日本海を中心とした一大文化圏を築いた。しかし安東氏一族間の争いと大津波と伝えられる(その痕跡は見つけられていない)自然災害により十三湊は荒廃し、さらに嘉吉3年(1443)頃の安東盛季のとき、南部政盛の奸計によって福島城を奪われこの地を追われた。

その後も十三湊は日本海交通の要所として機能し続けたが、津軽浪岡の北畠氏は、陸奥湾の外浜の湊を用い、南部氏も鯵ヶ沢の湊や南出羽の酒田湊を利用したことから、十三湊は中継ぎ湊となった。江戸時代に入っても、弘前藩は十三湊を重要港の一つとしてはいたが、中心は鯵ヶ沢に移り次第に衰退していった。