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青森県弘前市西茂森(長勝寺境内)

2013/08/20取材

大浦夫人廟
大浦夫人廟

 
大浦夫人は、津軽初代藩主為信の正室で、二代藩主信牧の義母にあたる。夫人の廟は、この長勝寺の信牧らの廟が並ぶ一番手前に、すこし引いた位置にある。

津軽為信の出自は定かではなく、特に津軽方と南部方ではその説が異なるが、為信の母は、下久慈の城主久慈備前の後妻となり為信を産んだとも言われている。

しかし久慈備前が死ぬと、家督を継いだ先妻の子に家を追われ、14歳だった為信を連れて家を出て、縁を頼りに大浦城に身を寄せた。この大浦城の大浦為則には、為信と同じ年の阿保良(おうら)という娘がいた。これが後の大浦夫人である。

為信と阿保良は恋に落ち、為則は2人の結婚を許し、永禄10年(1567)為信は18歳で大浦家の婿養子となった。2人が結婚した翌月に、為則が急死したことで、大浦家は為信が継ぐことになり、為信は当時南部氏に支配されていた津軽の独立を目指すようになり、阿保良もその夢を共有するようになった。

為信は、元亀2年(1571)、南部氏の津軽支配の拠点の石川城に石川高信を討ち、ここから為信の津軽攻略が始まった。為信は、ならず者83人を手勢に加え、石川方の婦女子を襲わせ、これにより石川方は混乱し戦に専念できず、その機に乗じ為信は石川城を攻めてこれを落としたと云う。

この出撃に当たっては、阿保良はならず者たちにさえも、花染めの手ぬぐいに強飯を包んで与えたと云う。彼らは若く美しい城主夫人からの贈りものに勇んで出陣したと言われている。

また、戦で火薬が不足したとの急報が届くと、大浦城の留守を任されていた阿保良は、うろたえる家臣を横目に侍女を集め、錫類の器物を持ってこさせ、自ら指揮をとって合薬を精製、戦場へと届けさせ、これにより味方の士気は大いに上がったとされている。また、飢饉の時には、自分は粗末な着物を着用し、民衆には穀物や薬を与えたという。

阿保良は津軽統一に権謀述作をめぐらす為信を一貫して支えたようだ。しかしながら彼女は、為信の子を産むことはかなわず、為信の跡は側室の子である信牧に託すことになった。