青森県弘前市西茂森

2013/08/20取材


満天姫(まてひめ)は、徳川家康の異父弟で下総関宿藩主松平康元の娘。伯父である家康の養女となり、関が原の戦いの直前の慶長4年(1599)、福島正則の養嗣子福島正之に嫁いだ。もちろんこれは家康が福島正則を取り込むための政略だろう。しかし慶長12年(1607)、正則から「正之が乱行」と幕府に訴えられ、正之は幽閉され翌年餓死した。これは、正則が実子の福島忠勝に後を継がせるために行なった虚偽だったともいわれている。このとき、満天姫は正之の子を身ごもっており、程なく男児を出産した。家康は、福島家の内部争いに巻き込まれることを恐れ、満天姫の離縁を強行して家康の孫にあたる幼子と共に引き上げを断行した。

慶長18年(1613)、天海僧正の進言もあり、家康は満天姫を津軽弘前藩主津軽信枚に再嫁させることにした。津軽家は、関が原の戦いの際には、豊臣秀頼の小姓だった長男の津軽信建は石田方に、三男の信牧は徳川方に与し、津軽為信は日和見を決め込んだ。しかし結果として、大垣城攻めの先陣を戦い事無きをえていた。このような事情から信建は石田三成の子の石田重成と、その妹辰姫を津軽に匿っていた。また、為信は津軽独立の際の石田三成の尽力に大きな義理を感じており、徳川家康に関が原の戦いの際の大垣城先陣の褒賞として黙認を得ていた。そのような縁から、信牧は辰姫を正室として既に迎えていた。

満天姫の輿入れは、このような津軽家の大阪方への「近さ」に対する幕府の不安がもたらしたもので、その踏み絵的なものだったろう。結局辰姫は側室とされ、津軽家の飛び地領の上州大館に移され、満天姫は正室として迎えられた。福島正之との間にもうけた男児も一緒だった。

満天姫も辰姫も、戦国の世に翻弄された女性で、立場は違ってもお互いにその心情は通ずるものがあったと思われる。また信牧もその二人の女性を思いやる度量を持っていたのだろうと思う。信枚は、参勤交代の際には必ず大館の辰姫の居館に立ち寄り、また江戸の満天姫をも思いやった。辰姫は元和5年(1619)に、後に三代藩主になる信義を出産し、翌年、満天姫は後に支藩の黒石藩主となる信英を出産した。辰姫は元和9年(1623)に32歳で若くして没したため、満天姫は幼い信義を信英とともに兄弟として訓育した。後々までこの異母兄弟は仲がよく、後に弘前と黒石の家臣の間に波風が立ったときも、信義と信英の信頼感は強く大事にはならなかった。

当時、大阪方への距離が近かった外様大名は、幕府に目をつけられており、常に改易の危機にあったといって良い。満天姫の婚家だった福島家も改易の危機にさらされていた。福島正則は、広島城を無断で修築したことで、津軽へ減封のうえ移される内示が出た。それに伴い、津軽藩は信州川中島へ10万石で移封されることが内示された。これは福島正則の大阪方への近さからくるものだったろうが、津軽藩も、石高は上がるとはいえ、実収入や父祖の地を離れることなどを考えると、割の良いものではなく、幕府が為信以来の大阪方への近さを懸念してのものだったろう。しかしこれは満天姫らの尽力で、ほどなく津軽家の移封は取り消され、福島正則が川中島藩に減封され、後に改易となった。

信牧は、弘前に他藩に先駆けて家康を祀る東照宮を建立するなど、徳川幕府に臣従する姿を鮮明にしていた。そのことを考えれば、後継者は、徳川家康の義孫にあたる、満天姫が生んだ信英とするのが妥当だろう。しかし、信牧は石田三成の孫にあたる信義を後継とした。それは、辰姫への思いだけではなかったろう。津軽独立からの父為信の思いや、兄信建の思いにも通じるものがあったのだろう。当然、当時の幕閣の考えは、満天姫の生んだ信英を後継とすべきの考えが圧倒的だったろう。しかし結局信義が三代藩主となった。これは満天姫の幕府への強い働きかけがなければ実現しないことだったろう。

寛永8年(1631)に信枚が没し、信義が3代藩主となった。以後、満天姫は葉縦院と号するようになる。しかしここにまだ問題が起こった。満天姫が福島正之との間にもうけた男児は、弘前藩の家老となっていた大道寺直英に養子に出され、大道寺直秀と名乗っていた。直秀は、このときすでに改易され、一旗本になっていた福島家を、福島正則の孫として、大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになっていた。

葉縦院は、この直秀の活動は、津軽家に災いをなすものと考え直秀を諫めたが、直秀は考えを改めることはなかった。そして寛永13年(1636)、直秀は江戸へ上って幕府に福島家再興を訴えるとして、江戸に出発するにあたり葉縦院のもとへ挨拶に訪れた。直秀は葉縦院に勧められるまま杯を空け、急に苦しみだしそのまま没した。これは葉縦院により毒を盛られたものと云われている。

徳川の女である葉縦院は、腹を痛めた実子を毒殺し、実子でないどころか石田三成の孫にあたる藩主信義を助け、婚家である津軽家を守ったことになる。しかしそれでも、信牧との間に生まれた信英は、支藩黒石藩の藩主となり、異母兄の信義を助け名君としてその名を残すことになる。

寛永15年(1638)、葉縦院は弘前で生涯を終えた。その霊屋は、長勝寺の信牧の廟の隣に建っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です