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青森県弘前市西茂森

2013/08/20取材


津軽信牧は、津軽為信の三男で、津軽弘前藩の二代藩主である。

父の津軽為信は、天正16年(1588)ほぼ津軽を統一した。そして翌年には秋田実季と和睦し、南部氏に先んじて家臣を上洛させ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵された。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際には、家臣18騎を連れて為信自身が駿河に出向き、小田原へ東下する秀吉に謁見し、津軽家は豊臣政権下での立場を確かなものにした。

兄の津軽信建と信牧は、父と行動を共にしていたようで、慶長元年(1596)には父の命により、兄とともにキリスト教徒となっていた。兄の信建は、津軽家が豊臣政権下での立場を確実なものとしていくために大阪にあり、後に豊臣秀頼の小姓となったようだ。これが、兄信建と信牧の運命を大きく分けることになった。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際には、信建は石田方に身を置き、信牧は徳川方に与した。為信は様子見を決め込んだが、最終的には徳川方として大垣城攻めの先陣を戦った。為信は、それでも津軽独立に際して、石田三成には義理を感じていたようで、信建が津軽に連れてきた三成の遺児の石田重成と辰姫を匿い、家康にかけあい、関が原の褒賞の代わりとして認めさせ、後に辰姫を信牧の正室として迎えた。

慶長12年(1607)、兄の信建と父の為信の相次ぐ死により信枚が家督を継承した。翌慶長13年(1608)、兄信建の遺児である熊千代を正当な後継者だとする家中勢力と家督を巡る争いが起こる。しかし徳川幕府は、石田方だった信建の遺児である熊千代を認めることはなく、信牧の幕府人脈を背景にしての尽力によりこの危機を免れた。

慶長14年(1609)から弘前城の築城と城下の整備を行い、着工から1年2ヶ月という早さで慶長16年(1611)弘前城は完成した。

しかし、キリスト教徒だったということと、石田三成の娘の辰姫の存在により、信牧は幕府から警戒されていたようだ。慶長18年(1613)には、福島正則養子の福島正之に嫁ぎ戻されていた徳川一族の満天姫が、徳川家康の養女として信牧の正室となることが決められ、石田三成の娘の辰姫は側室となり、津軽から飛び地の上野に移された。また、慶長19年(1614)には、津軽が西国のキリシタンたちの流刑地となった。

信牧はそれでも参勤交代の度に上野の辰姫のもとを訪れ、変わらず仲睦まじかったという。辰姫は、元和5年(1619)に後の三代藩主信義を生み数年後死亡した。正室の満天姫も福島氏の政略結婚の道具となっていたこともあり、辰姫のつらさも信牧のつらさも理解できる女性だったのだろう。信牧もそれらを受け入れる度量があったのだろう、信義誕生の翌年には満天姫にも後の黒石藩主信英が生まれている。満天姫は、辰姫の死後に幼い信義を引き取り、信英の兄弟として訓育した。

信牧は、幕府の外様取り潰しの圧力を常に感じざるを得なかった。関ヶ原の戦い以降の経緯は、表には出なくとも意識せざるを得なかった。信牧は、元和2年(1616)家康が没し、日光東照宮が翌年建立されると、東照宮勧請願いを出して許可された。領内に家康の威光の象徴である東照宮があれば、幕府も迂闊には手出しできないはずだったが、元和5年(1619)には、満天姫の婚家だった広島の福島正則に津軽への転封と蟄居を、津軽家には信濃川中島藩への転封を命じる内示が出された。しかしこれは1ヶ月も経たない内に沙汰止みとなった。これは信牧や家臣団が尽力したのはもちろんだが、徳川家康の養女としての、満天姫らの運動によるものが大きかったことは事実だろう。

信牧は、弘前の街造りだけではなく、領内の開発を行い、寛永元年(1624)には陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷から上方、江戸との交易ルートを整備した。この青森港が現在の青森市の発展のもとになった。その他領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。

信牧は、家康養女である満天姫との間に家康義孫である信英をもうけている。また辰姫との間には、石田三成の孫にあたる長男の信義をもうけていた。信牧の一貫した徳川幕府への臣従の形から考えれば、次男の信英を後継とするのが妥当なのだろうが、信牧は長男の信義を後継とした。これは信牧の強い意思だったと伝えられ、また満天姫の強い後押しがあったからこそ実現したのだろう。

津軽家の治世の名君、津軽信牧は、寛永8年(1631)1月、江戸藩邸にて死去した。享年48歳だった。