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青森県中泊町中里

震災前取材

中里城は、津軽山地より西へ伸びる標高約50mの丘陵上に位置し、3つの区画から構成され、主郭は、南北に縦走する土塁、空堀によって東西に隔てられている。南側は急崖で守られ、緩斜面部には数段の帯郭が巡らされている。南の神明宮のあたりまで城域であった様で、その参道も帯郭だったと考えられる。

中里城跡には、縄文時代からの集落の地と考えられ、当初は低地に集落が作られていたものが、平安時代の10世紀後半に、空堀、土塁、柵列が配された環濠集落として整備されたと考えられる。これは、土地、水、交易利権等を巡る蝦夷同士の争いが原因とされるが、定かではない。その後、平泉藤原氏がこの地を支配する平安時代後期までに、古代の環濠集落はその役割を終えたようだ。

中世に入ると、安東氏が藤崎から十三湊に入り、この地は安東氏の支配に入り、安東氏の支城として整備されたものと思われる。室町時代に入ってからも安東氏は十三湊を拠点として蝦夷地や大陸との交易を行い栄えた。この当時、城主として新関又二郎の名が見える。

しかし、津軽にも勢力を伸張してきた南部氏は安藤氏と対立し、安東盛季は南部氏と姻戚関係を結んだが、南部氏の謀略により福島城を奪われ蝦夷地に逃れ、この地は南部氏の支配するところとなった。南部氏の支配下では、城主として中里半四郎の名が見られるが、大浦(津軽)為信の侵攻により八戸南部に逃れ、その後廃城となったと思われる。