青森県むつ市城ヶ沢

2016/04/06取材

 

別名:北の本城、泉沢館

順法寺城は、小学校跡地と城ヶ沢の自衛隊大湊航空隊の敷地にかけて築かれていたという。正確な場所は不明だが、かつては土塁や堀も残されていたという。

案内板によるとその規模は、郭が5ヶ所、櫓が6ヶ所、門が5ヶ所、石垣の高さは最高で約10.3m、堀は深さ約1.8mの3重堀で、幅は10~15mほどとされるが、現在見る限りにおいては明確な遺構は無いようだ。

宝治年間(1247~49)当時はこの地は安東氏が支配しており、安東盛親によって築かれたと伝えられる。以後、宇曾利安東家の居城として利用されたが、鎌倉時代末期に家臣である新井常安が謀反を起こし、当時の城主安東元親は討死、宇曾利安東家は没落した。

建武元年(1334)、その新井常安を討伐するとして、南部師行が家臣である武田修理と赤星五郎に追討させ常安は滅ばされ、それ以降この地は八戸南部氏が支配するようになった。

南北朝時代に入ると、南部氏は南朝方に属したが、南朝方は次第に劣勢になり、正平3年(1348)に、後村上天皇から託された護良親王の皇子の良尹(ながただ)王を順法寺城に招きその居城とした。

良尹王の後裔は、南部氏家臣の蠣崎城の蠣崎氏(武田氏)、田名部城の赤星氏を与力とし、北部王家を称しこの地域を支配した。

しかし康正2年(1456)、北部王家と婚姻関係を結ぶなど、力をつけて来た蠣崎氏は、蛎崎蔵人信純のとき、順法寺城北部王家の新田義純を舟遊びに誘い出し溺死させ、田名部城も落城させ下北半島を支配、南部氏と対立した。

南部氏はこの反乱の鎮圧にてこずり、蠣崎蔵人は一時は七戸城まで攻め込んだが、結局は平定され、蠣崎氏は蝦夷地へのがれた。

その後の永禄年間(1558~70)には、九州の菊池一族の菊池正義が、同じ南朝方だった南部氏を頼ってきた。正義は順法寺城に居住し、その子正興は田名部館を修築して居館としたという。

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