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青森県南部町大向字長谷94−6

2014/08/25取材

 

 

 

 

名久井岳山麓の「長谷の森林公園」があり、園地には8千本のぼたんが植えられており、「長谷のぼたん園」として多くの観光客が訪れる。

この地は「長慶天皇ご潜幸の地」とされ、八戸根城の南部氏が、仮の御所を造営し住まわせたと伝える。ところが北朝方に知られる所となり、天皇を津軽の浪岡へ移し、表向きは崩御したとして石塔まで建立したとされる。

長慶天皇がこの地に滞在していた時に、食事に困った時に、家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。これが後の「南部せんべい」の始まりであるとも伝えられる

長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で、母は二条師基の猶子嘉喜門院で、南北朝時代の第九十八代天皇で、南朝の第三代天皇である。南朝が衰退している中での天皇でもあり、史料が少なく、その在位、非在位をめぐる議論があったが、大正15年(1926)にようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。

南朝は北畠親房らの重鎮を失い弱体化が著しかったが、天皇は北朝に対して強硬であり、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶していた。

しかし北朝方からの圧力は強まる一方で、ついに穏健な弟の東宮(後亀山天皇)に譲位した。その後上皇となった長慶天皇は、各地の南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に伝説地が点在する。

特に東北地方には、伊達氏や葛西氏、南部氏など、有力な南朝方勢力が存在し、それらを頼りに東北地方を潜幸したということは、史実的にも十分に考えられる。

特に南部氏は、中央とも離れており、また南朝方の中心勢力だった北畠氏を受け入れ、津軽の浪岡に庇護していた。

それを考えれば、この地に伝えられる伝説は、史実としての一定の合理性はあると思われる。