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青森県三戸郡南部町剣吉字岩ノ下

2014/08/24取材

 

剣吉城は、馬淵川の左岸の、比高20~40mの東西に延びた小丘陵に築かれた平山城である。大きく大館と小館からなり、大館が本城で現在の剣吉小学校の位置にあり、小館は居館で大館の東麓にあったと云われている。どちらも遺構はほとんど見られない。

築城年代など詳細は定かではないが、城主は三戸南部氏三代時実の四男宗実を祖とする北氏とされる。北氏は三戸城の北に屋敷があったことから北殿と呼ばれるようになった。

三戸南部の南部晴政は、田子信直を養子として嗣子としていたが、遅く実子が生まれ、そのことで後継問題で内紛が起きていた。晴政は信直を殺そうとしたが、信愛は信直を剣吉城に匿い晴政は城を攻めた。このときは八戸政栄が入り、和解を進め、その場は収まった。

そのような中の天正10年(1582)、晴政の跡を継いでいた南部晴継が暴漢に襲われ横死した。これに対し北信愛は、浅水城の南康義、八戸の南部政栄とともに田子信直を擁立、反対派の九戸政実を退け、強硬に信直を南部家の後継とした。これにより南部信直と九戸政実は決定的に対立し、その後の九戸の乱へと続いていく。

天正19年(1591)の「九戸の乱」が終結すると 信直は豊臣秀吉から稗貫・和賀郡を領地として宛がわれ、信愛は稗貫郡代として花巻の鳥谷ヶ崎城に移り、それからほどなくして剣吉城は廃された。