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青森県階上町道仏字小舟渡

2016/09/26取材

 

寛政年間(1789~1801)には、日本の近海を異国船が行き交うようになり、幕府は異国船に対する警戒を強化することとなり、海岸に領地を有する諸藩に、領内の防衛、隣藩への応援態勢などを報告するように命じて来た。

八戸藩では、寛政5年(1793)に、この地の他にも鮫裏や麦生浦など七ヶ所に砲台場を構築して大筒を配備した。

その後アメリカ船が浦賀へ来航した嘉永6年(1853)、鳥羽伏見の戦いの時の慶応4年(1868)と、海岸防備で騒いだ三時期とも、この小船渡海岸は台場として重要視された。

八戸藩の記録によれば、小船渡台場の構造は、海岸約90mほどにわたって高さ3mほどの土手を築き、三ヶ所の空間から沖合に向けて大筒を据え付けた。併せて情報伝達の為の狼煙場、篝火場としての機能も備えていた。

また御目付や大筒方、手勢としての武士たちが配置されたことから、御陣屋とも呼ばれた。