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青森県三戸郡五戸町浅水

2014/08/24取材

 

浅水川左岸の丘陵に位置し、東西に延びた丘陵先端に築かれた山城で、本郭、二の郭、三の郭からなる。浅水川を挟んだ対岸には浅水館、工藤屋敷と呼ばれる城館があった。現在は八幡宮となっている。

初めは四戸氏がいたと推測される。一時、謀反を起こした工藤氏の一族の居城となるが、天文年間(1532~55)に、南部氏との抗争に敗れ、その後は三戸南部氏の支配下となった。

三戸南部二十二代政康の三男長義は、五戸と浅水を知行して浅水氏を名乗ったが、三戸城の南側に屋敷があったため、南殿と称された。

永禄年間(1558~70)の南部晴政と信直の対立では信直派に属していた。天正4年(1576)、信直が養嗣子の座を辞退して田子城に戻ると晴政は信直暗殺を画策し、信直は剣吉城の北信愛に匿われた。このため剣吉城は晴政勢の攻撃を受け、南康義も信直を支持して晴政軍と戦った。

南氏三代盛義のころ、天正19年(1591年)九戸政実の乱において、浅水城は九戸政実方に与した櫛引城主櫛引清長の攻撃を受けたがこれを撃退し敗走させるが、撤退する櫛引勢を追撃した南盛義、康政兄弟は、法師岡で櫛引勢の迎撃を受けて討死し、その後南家は嗣子がなく断絶した。

その後、南部藩二代藩主南部利直の四男利康が、南家の名跡を継承したが、寛永8年(1631)に利康は24歳で死去し、ほどなく浅水城は廃城となりました。