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青森県八戸市長者1丁目

2016/04/07取材

 

長者山新羅神社は、桜の名所でもある長者山山上に鎮座する。重要無形民俗文化財の八戸三社大祭や八戸のえんぶりで有名であり、八戸では、櫛引八幡宮と並び崇敬を集める神社である。この地方では古くからの文化の中心となり、今も「八戸えんぶり」の奉納舞、八戸三社大祭での神輿渡御、「加賀美流騎馬打毬」も開催される。

江戸時代に、盛岡南部藩が分藩し八戸藩が立藩された。この時期に、八戸藩初代藩主南部直房により、虚空蔵菩薩が勧請され「祇園」と俗称された堂宇を建立した。延宝6年(1678)には、二代藩主直政が、八戸藩の守護と領内の五穀豊穰と領民の安穏、無病息災を祈念する祈願所として、山上に南部氏の遠祖である新羅三郎義光(源義光)を勧請し、「三社堂」または「虚空蔵堂」と号し、この地方の一ノ宮として崇敬された。

以後、八戸藩奥南鎭守として歴代藩主から尊崇され、また造営事業等は藩直営で行われた。元禄7年(1694)に社殿の改築がなされた。

また八代藩主南部信真公の時代の文政10年(1827)、藩政改革の一環として社殿造営が行われ、現在の社殿が建てられた。建築にあたっては、都から宮大工を招き、毎日500人から1,000人もの人夫を駆り出し、作業に景気をつけるため、オシャラグ(遊女)たちに太鼓を打たせ、拍子をとらせ行われたと云う。この時、桜の馬場を開設して例祭に打毬を奉納するようになった。

明治初期の神仏分離に伴い、明治2年(1869)に社号を「新羅神社」と改めて郷社に列し、明治14年の明治天皇の東北巡幸に際しては、騎馬打毬が天覧に供された。

本殿は入母屋造りで向背柱廻りや正面扉などに華麗な彩色模様が施されている。本殿、拝殿とも細部の彫刻などに江戸時代の特徴が良く表現されており、平成3年(1991)に県重宝に指定された。