青森県弘前市大字乳井字古館

2015/08/26取材

 

乳井古館は乳井地区背後の比高約60mの丘陵上に築かれた山城。館は四郭によって構成されており、頂部に南北二郭、東西に一郭ずつあり、西郭は愛宕神社の祀られた公園になっているが、他はリンゴ園になっている。

規模は推定で、東西約150m、南北約300mほどと思われる。山頂部の主郭部を中心に、周囲に数段の郭を配していたようだ。主郭部は東西約80m、南北約120mほどで、南北の2郭からなり、堀で仕切られている。

鎌倉時代に乳井氏により築城されたと伝えられる。乳井氏はこの地に福王寺を創建した、信濃戸隠の修験僧を祖とする。

南北朝期、南朝方に与し北朝方の曽我貞光の焼き打ちにあった。その後、乳井氏は福王寺の堂衆を率いて勢力を拡大し、天文年間(1532~55)頃 乳井玄蕃の代に乳井城に居館を移したと伝えられる。

永禄年間(1558~70)、独立色の強かった乳井氏は南部氏と対立し、このため永禄8年(1565)、乳井玄蕃は南部氏の代官で大光寺城代の滝本重行に暗殺され、南部方は乳井氏の抑えとして高畑城を築いた。

元亀元年(1571)、大浦為信が津軽統一の旗を掲げ、石川城を急襲すると、玄蕃のあとを継いだ乳井大隅建清は、大浦勢の動きに乗じて高畑城を攻略し、さらに天正3年(1575)には大浦勢に加担して大光寺城を陥落させ、滝本重行を比内に追い落とした。

天正7年(1579)年、滝本重行は檜山安東氏の支援を受け津軽に侵攻し、乳井茶臼館は落城し、乳井古館も陥落した。しかし滝本勢が沖館城攻略に失敗し乳井茶臼館に立て籠もると、大浦勢は「六羽川の戦」で滝本勢を撃破し、乳井建清は乳井城を奪還した。

その後、天正10年(1582) 建清は大浦為信から大光寺城を宛がわれ、子孫は津軽藩に仕えた。