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青森県弘前市笹森町
2015/08/26取材
弘前藩第二代藩主の津軽信枚が、師の天海を通じて、幕府に日光東照宮から東照大権現の神霊を迎える事を願い出、元和3年(1617)に弘前城天守の傍らに東照大権現を勧請した事にはじまる。
この勧請は御三家を始めとする徳川家一門や、他藩に先行する最初の東照宮の勧請であり、信枚の正室で徳川家康の養女であった満天姫が、養父である祭神に孝養を尽くそうという願いに発したものと云う。
その後寛永元年(1624)に、弘前城の北東に位置する現在地に遷座され、同5年(1628)に社殿を造営した。その神事は満天姫がこれを差配したが、寛永15年(1638)の姫歿後は、別当の薬王院が管掌する事となった。
創祀以来、藩直轄の神社とされ、藩主も度々社参する等尊崇され、明和2年(1765)には「東照宮百五十年忌」が斎行された他、文政元年(1818)には拝殿が建立され、第九代藩主寧親の時代には社殿の改築が行われた。
建物は、寛永5年(1628)の創祀当時の建物で、素木造で彫刻や金具を殆ど用いない簡素な造りとなっている。しかし細部に施された彫刻や身舎の構造に桃山時代の建築技術が生かされ、県内の神社建築中屈指のものとされ、昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定された。
津軽氏は、津軽独立の経緯から、豊臣秀吉や石田三成には恩義を感じていたようで、関ヶ原の戦いの際には、信牧は東軍方だったが長男の信建は西軍方に身を置いていた。また津軽には石田三成の次男の重成を匿っており、信牧の正室の辰姫は石田三成の娘だった。また兄の信建とともにキリスト教徒でもあった。
その為だろう、信牧は天海に弟子入りし天台宗に改宗する。さらに天海の推挽により、石田三成の娘の辰姫を側室とし、徳川家康の養女となった松平氏の娘の満天姫を正室に迎えた。
しかしそれでも幕閣には、関ヶ原の戦いで家中二分策をとった津軽氏への不信感があったようで、後に出る転封の話も持ち上がっていたかもしれない。元和2年(1616)、家康が死去し、家康を祀る日光東照宮が翌年建立されると、津軽家から東照宮勧請願いが出された。これは幕府に影響力のあった天海の強い意向があった。
実際その後の元和5年(1619)、幕府は安芸の福島正則に津軽10万石への転封と蟄居を、津軽家には信濃国川中島藩10万石への転封を命じる内示を出した。しかしこれは、満天姫や天海が、その将軍家や幕府に対して強く働きかけ、結局は沙汰止みになった。