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青森県板柳町深味字深宮

2015/08/26取材

 

この地は、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の次男、石田重成が隠れ住んだ地だと云われている。重成はこの地で名前を杉山源吾と変えてしばらくの間過ごしたという。この八幡宮は、石田家ゆかりの神社で「杉山八幡宮」とも呼ばれている。

石田重成は石田三成の次男で、母は宇多頼忠の娘である。関ヶ原の戦いの際には、小姓として豊臣秀頼の守護にあたっていた。

津軽為信は、津軽独立が成功した裏には、石田三成が豊臣秀吉との間に入り奔走してくれたことがあった。為信はこれを終生忘れなかったようだ。

関ケ原の戦いの当時、長男の信建は西軍側として大阪にあり、為信は密かに兵も送っていた。為信自身と次男の信牧は、東軍側として大垣城攻めに加わり、先陣の功を挙げた。

結局。西軍は敗れ、石田三成の居城の佐和山城も落城した。重成はことを知ると、津軽信建の助けで、妹の辰姫や一族の者とともに、海路津軽に逃れた。

津軽為信は、石田三成と豊臣秀吉への感謝の念を終生持ち続けたといい、重成が持っていた秀吉の木像を、弘前城の館神として密かに祀ったといわれている。

重成はこの地の神家にしばらくとどまったが、間もなく黒石方面に移ることになった。しかし持って来た守護神が急に重くなったためこの地に深い執着があるのだろうとこの地に安置し、「杉山八幡宮」と称したといわれている。 この御神体は、豊臣秀吉の守仏で、石田三成が賜ったものだった。

重成のその後は諸説あるが、その長男の吉成は、弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫は代々弘前藩の重臣として存続した。

妹の辰姫は津軽信牧の室となったが、その後、家康の養女となった満天姫が正室に定められ、辰姫は飛地の上野の大館に移り、若くして没した。しかし信牧と辰姫の子の信義が津軽藩三代目藩主となった。