青森県田子町字田子

2012/11/05取材

田子(たっこ)館は、田子川の右岸、比高30mの丘陵上に築かれた平山城で、堀切によって大きくは牛尾館と佐々木館の2郭に分けられている。また牛尾館内も、堀で小館と大館とに区画されていた。館の南側は急峻な丘陵と堀で分断され、北から東側には自然の外堀として田子川が流れている。

現在牛尾館は田子中学校敷地となっており、牛尾館の大館と小館を区画していた堀は埋められてグランドとなり、城跡の遺構はほとんど見られない。わずかに牛尾館と佐々木館の間の堀切が、中学校への入り口通路として残っているのみである。

築城時期は不明であるが、三戸南部氏が糠部郡に入部した際に家臣となった、在地勢力の佐々木氏が築城したとされるが詳細な事績は不明である。大永年間(1521~28)頃、南部政康の次男(異説あり)の高信が、津軽、鹿角への兵站拠点として田子城に入城し、津軽郡代として石川城に移るまで居住したとされる。

天正期、牛尾館には高信の実子で、後に南部宗家を継承する田子信直が居し、佐々木館には佐々木惣左衛門が居住していたとされる。永禄8年(1565)、南部氏第二十四代当主の南部晴政には男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられた。檜山城主の安東愛季が鹿角に侵攻した際にはこれを撃退し武名を挙げた。

しかし、元亀元年(1570)、晴政に実子南部晴継が誕生すると次第に晴政から疎まれ、信直は跡継ぎを辞してこの地に戻った。しかし、二十五代の晴継は暗殺され、一族の会議で信直を担いだ北信愛らが強引に信直を後継とした。これを不服とした有力一族九戸政実が信直と対立するようになり、九戸政実の乱につながっていく。

天正10年(1582)、信直は南部宗家の家督を継承して三戸城に移った。その後も津軽、鹿角の押さえとしてこの館は機能していたと思われ、天正19年(1591)の九戸政実の乱の時には、信直はこの館に避難したと言われる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です