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青森県南部町字小向聖寿寺(三光寺境内)

桜庭氏は、代々安房守を名乗っているが、この地の墓は、南部信直、利直に仕えた南部直綱の墓である。

桜庭氏は、南部氏初代、南部光行の奥州下向以前からの譜代の家柄であり南部四天王と称された。直綱は、天正10年(1582)の元服の際に、主君南部信直から「直」の一字と来国次の太刀を賜り直綱と名乗った。

父の光康は、三戸南部氏の後継をめぐっては、北信愛とともに一貫して南部信直を支え、最後には強硬に信直を南部氏の後継とした。そのためもあってか、直綱は、実弟で北信愛の養子になっていた北信景とともに取り立てられ、信直の若き幕閣として活躍した。

天正19年(1591)の九戸政実の乱では、信直の意を受けて、領内諸豪族の説得に当たった。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際には、伊達氏の力を背景とし、和賀忠親が起こした岩崎一揆では、馬上の侍大将として70人の部隊を率い、南部軍の主力として戦った。

またこの年には、北信景とともに遠野の阿曽沼氏追い落としを画策し成功した。翌年の慶長6年(1601)には、この阿曽沼氏が伊達氏と結び遠野に攻め込んだ際には、350人の部隊を率いて阿曽沼軍と戦い、これを打ち破った。

しかし、大阪冬の陣の前に、南部利直のたわむれで嫡子を失った実弟の北信景が、南部を出奔する事件が発生した。信景は大阪城に篭城し、射た矢に「南部信景」の名があったのが問題となり、南部利直は徳川家康の不興をかった。

利直は、この件で江戸幕府から詰問され、本多正純、安藤直次を通して駿府の徳川家康と江戸の徳川秀忠宛に弁明の書状を送っている。その中で、直綱の実弟である北信景との関わりを薄めるためか、桜庭氏の系図を詐称、隠蔽したと考えられている。結局この件は、南部氏の叛意は無かったとし、北氏や桜庭氏には処分はなかった。

元和元年(1615)家老に就任、翌年に後の盛岡藩主となる南部重信が生まれると、その確認のための「御検視役」となった。

元和6年(1620)没、家督は長男の直際が継いだ。墓は宮古市長根の桜橋累代の墓の中にあるが、南部信直との強い結びつきから、この地にも建てられたものと思われる。