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青森県八戸市湊町下条(大祐神社境内)

2013/10/07取材

昔、この地の近くに、又次郎と長才という二人の漁師が住んでいた。二人は新井田川に48の川留めをしてサケをとっていた。ある年、二人はその川留めで又次郎が1千尾、長才が800尾サケが捕れ、これまでにない大漁だった。

村人たちはこれを称えて、この後も漁師たちがこの河口でサケをとるときには、「千魚(せんこ)又次郎、八百長才」と唱えながら跳ね上がるサケを捕ったという。

建保2年(1214)、工藤大祐は、父の祐経が信仰していた弁財天とともに八戸の松館村に着き、一時弁財天を洞穴に安置したところ、ある日の夜に、「汝に有縁の地はここより北にあり」とお告げがあった。

しばらくすると、館鼻の千子又二郎と八百長才という漁師の長が大祐のもとに来て、夢の中で竜神様のお告げがあったので迎えに来たと云う。そこで大祐は、二人の漁師に伴われ、館鼻の岬「日和山」に着き、海岸を見回したところ、眼下には大河があり、人々が住むにはまことに適した地に見えた。

大祐は、この地に移り住むことを決し、この地の神聖な岩を「磐座」として弁財天を移し祀った。

大祐は、弁財天を一心に拝み豊漁祈願を行い村に大漁をもたらした。また村人たちの暮らしに心を砕き、それまでの寂しい村を活気ある村に変えていった。

大祐は死後、次男の大助により大祐明神として、弁財天とともにこの岩を磐座として祀られたと云う。

この伝承の中の工藤氏に関わるものは、八戸に工藤氏が進出した史実と関わりがあるものと考えられる。この地の工藤氏は、その後の南北朝時代までに、南朝方の根城南部氏に組み込まれていったものと思われる。