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青森県三沢市谷地頭四丁目

2013/04/25取材

「六十九種草堂苑」は、斗南藩少参事としてこの地に日本初の洋式牧場を開いた、広沢安任の書斎、住居を復元したものである。

戊辰戦争に敗れた会津藩二十三万石は、現在の下北、三戸地方に三万石の領地を認められ斗南藩として立藩、藩士らが移住した。

その後、廃藩置県により斗南県となったが、困窮にあえぐ自県の救済策として、広沢安任は弘前県への吸収合併を画策し、弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県の5県合併を政府に建言し、新たな弘前県の成立に至った。

また安任は、この地は古くから馬の生産地として有名な「木崎の牧」の地であることから、貧困に苦しむ旧会津藩士のため、明治5年(1872)に、この木崎の牧の一部2300町歩を国から譲り受け、イギリス人二人を雇い、日本で最初の近代洋式牧場「開牧社」を設立した。

明治9年(1876)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿大久保利通がこの牧場を訪れ、中央政府の要職を準備して任官を薦め、その後も幾度か政界へ誘われたが、「野にあって国家に尽くす」として固辞した。

安任は、この地の野草が牧草としてふさわしいかを研究し、明治14年(1881)に東京で開かれた勧業博覧会に野草69種を出品した。安任は、この地の馬産の歴史を調べ、また本草学に学び、牛馬の嗜好、得失を丹念に調査し、牧場経営に打ち込んだ。

安任は、晩年「牧老人」と号し、客間と書斎の住居を「六十九種草堂」と名づけた。客間には、親交のあった勝海舟や松方正義の書を掲げていたと云う。