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青森県五所川原市金木町…芦野公園内

2012/05/15取材

 

太宰治は、明治42年(1909)五所川原市金木町に生まれた。この地の文学碑は、太宰の功績を称え、昭和40年(1965)に建てられた。

スェーデン産の黒石には、太宰が生涯愛したヴェルレーヌの詩が刻まれている。

「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 一つわれにあり」

中央の鉄格子は、人間の道の狭い険しい一つ一つの門があるということを表現し、また上部の浮彫りには、太宰の作品を象徴とした不死鳥が刻まれている。

太宰は、県下有数の大地主である津島源右衛門の六男として生まれた。父は県会議員、衆議院議員、貴族院議員等をつとめた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。母は病弱で太宰自身は乳母らによって育てられた。

太宰は恵まれた環境に育ったといえるが、太宰自身はそれを重荷に感じていたようで、後に「苦悩の年鑑」のなかで

「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。」

と書いている。

17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、同人誌を発行、作家を志望するようになる。官立弘前高等学校時代には、泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒し、また左翼運動に傾倒していった。

昭和4年(1929)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行し作品を発表した。この頃は自らの地主階級に悩み自殺未遂事件を起こした。

昭和5年(1930)、弘前高等学校を卒業すると、フランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学した。しかしフランス語は全く知らず、また高水準の講義内容について行けず講義からは足も遠のき、実家からの仕送りで不自由の無い自堕落な生活を送るようになった。

そのような生活の中で、マルキシズムに傾倒し、共産主義活動に没頭、大学の講義には殆ど出席しなくなった。この頃、井伏鱒二に弟子入りし、本名の津島修治に変わって太宰治を名乗るようになった。

大学は留年を繰り返し授業料未納で除籍され、卒業に際しては、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われたが、講義に出席していなかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中に、カフェの女給と入水自殺を図るが、女性だけが死亡し、太宰自身は生き残り、自殺幇助容疑で逮捕されるなどしたため、実家の津島家からは勘当された。

昭和8年(1933)頃から同人誌などに次々と作品を発表し、昭和10年(1935)には「逆行」を『文藝』に発表し、憧れの第1回芥川賞候補となった。しかし選考委員の川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され落選した。

その後、選考規定が変ったこともあり、念願の芥川賞受賞もならず、薬剤依存症となり、処女短編集「晩年」を刊行したが、昭和12年(1937)、内縁の妻と自殺未遂事件を起こし一年間筆を絶った。

昭和13年(1938)、井伏鱒二の招きで山梨に3か月逗留し、また井伏の紹介もあり結婚した。この頃はようやく精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表した。

戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を継続、戦後の昭和22年(1947)には、没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、流行作家となった。

しかし、昭和23年(1948)、「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのちの6月、玉川上水で愛人と入水自殺した。朝日新聞に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。この作品の13話が絶筆になったことから、キリスト教のジンクスを暗示した太宰の最後の洒落だったとする説もある。