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青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋

2013/06/10取材

「乙女の像」は、十和田湖畔休屋の御前ヶ浜に建っている。詩人にして彫刻家の高村光太郎の傑作として知られ、十和田湖の文字どおりのシンボルとなっている。

十和田湖を世に出した功労者は、明治の文人大町桂月、「十和田知事」の異名をとった武田千代三郎知事、地元の法奥沢村長で県議でもあった小笠原耕一の三人だった。昭和初期から、この3人の顕彰のための記念碑建立が計画されていた。

戦後の昭和22年(1947)春、戦後初の知事津島文治は、「世界的な景勝地に、ありきたりの石碑では似つかわしくない」と従来の計画を白紙に返し、昭和25年(1950)、建設準備委員会を発足させた。当時県教委教育次長で歌人の横山武夫は、かねてから強い印象を抱いていた関東大震災復興記念像「悲しみの群像」のような芸術作品を据えることを提案、これにまとまった。

横山らは、高村光太郎に依頼することを念頭に意見を求め、異論のあるはずもなく、昭和27年()正式に依頼した。光太郎は「自然美には、人工を受け入れるものと受け入れないものの2つがある。現地を見て決めましょう」と答え、その年の6月、十和田湖に入った。

光太郎は十和田湖の美しさに深く感動し、湖上を遊覧しているうちに制作イメージが湧いたと云い、「裸像でもいいですか」と尋ねたと云い、すでにこのとき、「乙女像」のイメージが湧いていたのかもしれない。

光太郎は、「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合い、見合うなかで深まっていくものがあることを感じた。それで同じものをわざと向かい合わせた」「二体の背の線を伸ばした三角形が″無限″を表す」「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」と、モチーフを語っている。

制作中、像の顔は白布で覆われ、だれにも見せることはなかったが、完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった。それを確かめた横山に対し「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と光太郎は答えている。

しかし、制作にあたってはモデルが存在し、みちのくの自然美に対抗できる、力に満ち満ちた女性美の持ち主で、彼女は選ばれたことに誇りと使命を感じ、光太郎の制作の手が止まると「先生、始めましょう」とうながしては奮い立たせたと云う。実際には、そのモデルに亡き智恵子の面影を落とし込みながら制作したのだろう。

完成は翌28年の晩春だった。光太郎はこのあと病に倒れ、この「乙女の像」が最後の作品となった。