青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋

2013/06/10取材

 

休屋の、十和田湖に突き出す中山半島に十和田神社はある。

十和田神社は平安時代の大同2年(807)に、坂上田村麻呂が東夷征伐の際、湖が荒れて渡れず、祠を建てて日本武尊を祀り祈願し、筏を組んで渡ったという。その祠が十和田神社の始まりと伝えられる。また十和田信仰の中心として、奥ノ院には十和田青龍大権現も祀られている。

この十和田神社には、十和田湖、八郎潟、田沢湖にまたがる三湖伝説の南祖坊伝説が伝えられる。

清和天皇の貞観13年(871)、藤原是行は、父是真が讒言にあい帝の怒りに触れ、一家は都を追われた。是行らは、陸前気仙に辿り着いたが貧苦迫り一家は離散し、やがて是行は夫人玉子とともに馬淵川の辺りの斗賀村の観音堂へ着いた。この観音堂の別当の計らいで、是行は三戸の仁賀村を安住の地とした。

是行は三戸の仁賀村で何不自由なく暮していたが子がなく、そのため神仏に祈願し子を授からんと、観音堂に籠り、再び都へ帰参し関白職を得るような器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈った。

満願の夜、是行の夢枕に神人が現れ、金扇を夫人玉子の君に授け、忽ちその姿は消えてしまった。夫人の玉子は間もなく懐胎し、玉のような赤子を生んだが、是行の思いとは異なり女の子だった。それでも夫婦は喜び慈しみ育てた。

しかし、女子では都に帰り藤原家を再興し関白職を継がそうとする是行の思いを果たすことはできない。そのため男装をさせ、飽くまでも男子として育てることにし、名を南祖丸と付けた。

南祖丸は,賢く藤原家を再興する器量も十分にあると思われたが、妻を娶り子孫を残すことは不可能であり、父是行はその考えを変えて、このまま男子として神仏に仕へさせようと考え、五戸永福寺の月志法印に頼み弟子とし、その名も南祖坊と呼び修行させる事となった。

南祖坊は、日夜学問に励みその才能は非凡なものがあり、月志法印も舌を捲き感嘆するほどだった。十三歳の春、紀伊国熊野へ参詣し神力を得るために出発した。熊野では一心不乱に修行に励み、不思議な霊夢により、諸国を行脚して凡ての神仏に祈らんと熊野神社を後に諸国巡礼に出かけ、その法力により多くの人々を救った。

この間、熊野三社に詣でること三十二回に及び、ちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜、夢枕に神人が立ち、「この草鞋を穿きこの杖の向くままに山々峰々を巡り、草鞋の断れたる所を汝の住家とし、弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残した。

南祖坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば、鉄の草鞋と荊の杖が一本置かれてあった。南祖坊は歓喜の涙にむせびながら、社前に額き、日本全国の霊場を廻り、道法礼節を説き、病に悩める者があればこれを救い、功徳を積み累ねながら行脚の旅を続けた。旅の果てに幾十年振りに故郷の永福寺に帰ってみれば、恩師も両親も既に他界し、そのまま十和田に向かった。

この十和田の地で、ついに南祖坊の鉄の草鞋は断れ、この地が熊野の神人からのお告げにあった南祖坊のついの住家になった。しかしこの十和田湖には、このとき、秋田のマタギであった八郎太郎が姿を変え、龍となって住み着いていた。

南祖坊は、十和田湖のほとりの岩山に座り経文を唱え始めると、八郎太郎は八つの竜頭を持つ大蛇に化身し湖面にその姿を現し、南祖坊に挑んだ。静かであった湖は急に荒れ狂い、雷が鳴り響き、山々が鳴動し、それは凄まじい光景となった。

戦いは七日七晩にわたり続き、その戦いで十和田湖から溢れ出た大量の水が、物凄い勢いの鉄砲水となり、奥入瀬渓谷を削り取り現在のような渓谷にした。南祖坊は、力を振り絞り、法華経の経典を八郎太郎に投げつけると、経文の文字の一字一字が鋭い剣となり八郎太郎に突き刺さり、その血は湖面と崖を真っ赤に染めた。

この激しい戦いの最中に、雲中より天帝の声が聞こえた。「この地は、熊野権現が南祖坊に与えし地なり。八郎太郎は八高嶽(八甲田大岳)をその住まいとなさすべし、必ず疑う事なかれ」としこの戦いを収めた。

八郎太郎と南祖坊は、この天帝のお告げを聞き戦を止め、八郎太郎は八高嶽に家来の八竜を移し、自らは秋田八郎潟に退いた。その後、八郎太郎は、秋田田沢湖の辰子姫と夫婦になり田沢湖に住むようになり、そのため八郎潟は主が不在となり浅くなり、田沢湖はさらに深くなったと伝えられている。

南祖坊は、その後、十和田湖へ入寂し、青龍へと姿を変えこの湖の主となり「青龍大権現」として祀られることとなった。

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