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青森県野辺地町字鳥井平

震災前取材

明治元年(1868)9月、官軍側に付いた弘前藩兵180人程が、盛岡藩領馬門村に火を放ち、野辺地村を夜襲した。はじめは盛岡藩側は劣勢であったが八戸藩勢の奮戦により弘前藩兵を撃退した。盛岡藩側の損害は軽微であったが、弘前藩側の死者は数十名に上り、翌明治2年(1669)、弘前藩戦死者のうち27名を祀る4基の墓石が国費で建てられた。

弘前藩は当初は奥羽越列藩同盟側だったが、慶応4年(1868)7月に秋田久保田藩に続き同盟を脱退した。久保田藩は仙台藩の使者を殺害したため、同盟軍からの攻撃にさらされたが、弘前藩は列藩同盟と敵対することはせず中立の立場をとったが、実際にはどちら側にも僅かな援兵を出すなどしていた。

9月に入ると東北各地で新政府軍が優勢になり、ここに到り弘前藩は公然と新政府に兵を出したが、新政府側からは既に「日和見である」と見られており、何らかの対応が必要だった。

9月12日には同盟の盟主である仙台藩が降伏、盛岡藩も翌日には新政府軍に降伏した。このような状況の中で弘前藩と支藩の黒石藩の藩兵約180名が盛岡藩領の野辺地馬門村に進入し一斉に放火し、馬門村の全戸が炎に包まれた。

虚をつかれた盛岡藩と八戸藩の守備兵は一旦逃走したが、その後駆けつけた盛岡勢の日の出を背負っての射撃に、弘前勢は視界を塞がれ壊乱状態となった。弘前勢は、隊長の小島左近以下多くの死傷者を出し撤退し、野辺地戦争は終結した。