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青森県むつ市蛎崎

蛎崎城跡山頂部に、この蛎崎蔵人供養塔がある。蛎崎蔵人信純は、南部氏宗家と争い敗れて、この地から蝦夷地に渡り松前氏の祖となったと伝えられるが、その出自など謎も多い。

特に敵対関係にあった安東氏側の資料と南部氏側の資料とでは食い違いがあるが、この地は江戸期には南部領であったこともあり、南部氏側の話が多く伝えられているようだ。

それによると、蛎崎氏の祖の武田修理信義は甲斐源氏武田氏の庶流とされ、元弘3年(1333)、南部師行に従い陸奥に下向した。この地宇曽利郷は安東氏一族が支配していたが、順法寺城の安東元親は謀反により殺され宇曽利安東氏は滅亡した。元弘4年(1334、建武元年)頃、陸奥国代の八戸根城の南部師行はこれを討伐し、武田修理信義と赤星五郎を宇曽利郷の目代に命じ、赤星五郎は田名部に館を築き、武田修理はこの蛎崎に城を築き居城としたと云う。

蛎崎入部以降は武田氏は蛎崎氏を称し、田名部城主赤星氏とともに宇曽利郷を管理した。貞和4年(1348、正平3年)、南朝方であった八戸南部氏は、護良親王の遺児良尹王を庇護し、良尹王はこの地の順法寺城に入り、蛎崎氏は赤星氏とともに宮家の与力に組み込まれた。

蛎崎氏は次第に独立色を強くし、宮家と婚姻関係を結んだが、文安5年(1448)、蛎崎蔵人信純は、宮家の新田義純(義純王)を船遊びに誘い、義純やその嫡男、また田名部城の赤星氏らが溺死する事件が勃発し、宇曽利郷一帯は蛎崎氏の支配するところとなった。

これにより蛎崎氏は宮家を庇護していた八戸南部氏と敵対することとなったが、この当時、八戸南部氏は、十三安東氏、湊安東氏、小野寺氏と対立していたため兵を容易に動かすことができなかった。この間に蛎崎氏は安東氏や葛西氏、アイヌ勢力、恐山の仏教勢力などと結び南部氏に対した。

蛎崎氏は大きな財力を持っていたと伝えられるが、それは恐山の金と関わりがあるのではないかとも思われる。ちなみに、現在も恐山には高い含有量の金鉱床があるが、土壌には高濃度の砒素が存在するため容易に採掘はできない。いずれにしても蛎崎信純は、その財力にものを言わせ、上洛し将軍に拝謁し太刀を拝領している。また蛎崎城を錦帯城と呼ばれるような華麗な館に改修している。

十三安東氏や葛西氏と結んだ蛎崎信純は、アイヌの兵をも率いて八戸南部領を侵攻した。アイヌ兵をも含む蠣崎勢は、毒矢を用いるなどの戦法を使い、野辺地の金鶏城を占領し、そこを基地として南部氏の重要拠点の七戸城をも落とした。

享徳5年(1455、康生2年)、南部政経は朝廷から勅許を受けるなど、ようやく準備を整え反撃に転じた。同年12月、官軍となった南部軍は占領されていた七戸城の攻撃を開始し、蛎崎勢は朝敵となることを恐れ戦わずして開城した。南部勢は七戸城を拠点とし、年が明けると陣容を整え海上を進み奇襲をかけることになった。

南部勢は海上を大湊に向けて出航したが、途中時化のため大間まで流されたが軍勢に大きな被害はなかった。蛎崎勢は南部勢が海上から奇襲をかけることを掴んでいたが、暴風雨によって遭難したものと思い、祝宴を開き酒を飲み浮かれていた。

南部勢は大間で兵を整え間道を山越えし、蛎崎城の背後から攻撃した。油断していた蛎崎勢はこの攻撃に驚き混乱し、錦帯城とうたわれ贅をこらした蛎崎城は火に包まれ蛎崎勢は四散し、南部勢は勝鬨をあげた。蛎崎信純はかろうじて逃げ延び、九艘泊から蝦夷地に渡り松前氏の祖になったと云う。

松前氏側の記録では、その祖は蝦夷地の花沢館の館主蠣崎季繁で、若狭国守護であった武田信繁の近親で、過ちがあり蝦夷に渡り下国安東政季の婿となり、蠣崎修理太夫と号していたと云う。また、若狭守護武田信賢の子の信広は武勇に勝れていたが、粗暴の振舞いも多く、父に嫌われ出奔し、この田名部の蛎崎氏の館に寓していた。

その信広が、南部氏との争乱に破れた安東政季とともに蝦夷地に渡り、花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。当時、道南にはコシャマインの乱が起きていたが、信広はこの乱を鎮圧し、後に蠣崎季繁の養女となった政季の娘と結婚し、蛎崎氏の跡を継ぎ松前氏の祖となったと伝えられる。

この武田信弘と蛎崎蔵人信純が同一人物とする説もあるが、真偽は定かではない。

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