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青森県むつ市蛎崎

2012/07/11取材


 

別名:錦帯城

城は陸奥湾に南面し、男川右岸の段丘上とその背後の山を利用して築かれている。城域は比較的大きく、東西約590m、南北約235mで、段丘上の廃校舎がある場所が主郭で、現在公園となっている山は見張曲輪跡とされている。公園の東西と北の山も城域の内で、山の斜面には郭が配されていた。真ん中に堀の役割を果たしたと見られる沢を挟み、一の郭、二の郭からなっていた。明治末年まで三方を石垣で囲んだ跡が見られたというが、現在は見られない。

築城時期、築城主は定かではないが、南北朝期以前は、この地は安東氏一族が支配していた。しかし、宇曽利郷の順法寺城主安東元親は、新井常安の謀反により殺され宇曽利安東氏は滅亡した。元弘4年(1334、建武元年)頃、陸奥国代の八戸根城の南部師行はこれを討伐し、武田修理信義と赤星五郎を宇曽利郷の目代に命じ、赤星五郎は田名部に館を築き、武田修理はこの蛎崎に城を築き居城としたと云う。

武田信義は甲斐源氏武田氏の庶流とされ、元弘3年(1333)、南部師行に従い陸奥に下向した。蛎崎入部以降は武田氏は蛎崎氏を称し、田名部城主赤星氏とともに宇曽利郷を管理した。貞和4年(1348、正平3年)、南朝方であった八戸南部氏は、護良親王の遺児良尹王を庇護し、良尹王はこの地の順法寺城に入り、蛎崎氏は赤星氏とともに宮家の与力に組み込まれた。

蛎崎氏は、宮家と婚姻関係を結んだが、文安5年(1448)、蛎崎蔵人信純が宮家の新田義純(義純王)を謀殺する事件が勃発し、田名部城の赤星氏も攻められ落城し、宮家を庇護していた八戸南部氏と敵対することとなった。

この当時、八戸南部氏は、十三安東氏、湊安東氏、小野寺氏と対立していたため兵を容易に動かすことができず乱は長期化した。この間に蛎崎信純は安東氏と結び、またアイヌの兵も率いて八戸南部領を侵攻した。アイヌ兵をも含む蠣崎勢は、毒矢を用いるなどの戦法を使い、野辺地の金鶏城を占領し、そこを基地として南部氏の重要拠点の七戸城をも落とした。

享徳4年(1455、康生元年)、南部政経は朝廷から勅許を受けるなど、ようやく準備を整え反撃に転じ七戸城を奪還し、康生3年(1457)、海上を大間に渡り反対方向の大間からの奇襲攻撃で蠣崎城を攻め落とし、信純を蝦夷地に追い落とした。蛎崎城はその後廃城になったと伝えられる。

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