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五所川原市飯詰福泉

2013/06/09取材

 

長円寺には、十三湖の沈鐘伝説が伝えられている。

昔、京の都から二つの大鐘を船に積み、十三潟を経由して岩木川上流の長勝寺に運ぼうとしていたが、途中船は、この地の十三湖の湖上で暴風にあい、船は二つの大鐘とともに湖中に沈んだ。幸い、雄鐘は引き上げることができたが、雌鐘は手を尽くし探したが所在不明となり引き上げることができなかった。雌鐘は十三湖の主になったと伝えられ、雄鐘は、この長円寺が引き取ることになった。

湖中に沈んだ雌鐘は、晴天の日にはしばしば水上に現れるといい、また、雄鐘をつくと、「十三恋し、十三恋し」と響き、湖中の雌鐘もこれに応えて、「長円寺恋し、長円寺恋し」と時折鳴ると伝えられる。

江戸時代の寛政年間(1789~1801)、ロシアの船が北海を横行するようになり、津軽藩は沿岸防備のための大砲の築造のため、寺にある鐘が徴用されることになった。

長円寺の鐘も鐘楼からおろされ、荷車に乗せられて運ばれたが、途中村の南はずれの舘の坂にさしかかると急に重くなり、大勢の人で押し上げても微動だにしなかった。

村人たちは奇異の感に打たれ、「この村から離れたくないのだろう」と考え、宗旨の別なく、この村に伝えられている伝承を記し、村民挙げて藩に具申し、徴用の解除を嘆願した。藩もその事情をくんで徴用は解除され、事なきを得たという。

慶応3年(1867)10月に長円寺は火災になり、鐘楼も焼失し、鐘は落ちて大きな割れ目が生じた。しかし年月の経過とともに、いつしか割れ目は密着し、今はその痕跡すらなく、音も昔のままの音を出す。

太平洋戦争時にも、全国の梵鐘がことごとく徴用されたが、これらの伝説を重んじ、この鐘は古美術品として徴用をまぬがれた。