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青森県むつ市字大平

2012/07/10取材

 

 

 

明治維新は、会津藩士にとっては苦難の始まりであった。明治3年(1870)、会津松平家は家名存続を許され、この斗南の地に立藩した。

斗南藩では、士族授産を目的として、松ヶ丘の開拓のために水を引き、この地に30余戸の住宅を建てた。

後の陸軍大将の柴五郎の少年期に、家族と共にこの年の6月田名部に到着した。五郎は、会津藩士(280石)柴佐多蔵の五男として生まれたが、会津戦争によって祖母、母、兄嫁、姉妹は自刃していた。その年はこの寂寥の地で越冬したが、寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞いた。五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、会津の国辱を雪ぐまでは戦場なるぞ」と言っていたと云う。

しかし、明治4年(1871)の廃藩置県により、その士族授産も忽然と消えうせ、藩士らは四散せざるを得なかった。藩士らの胸中には「まこと流罪にほかならず、挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみだったと云う。

それでも五郎は、藩校日新館、青森県庁給仕を経て明治6年(1873)、陸軍幼年学校に入校、明治10年(1877)には陸軍士官学校に進んだ。士官学校卒業後は主に砲兵畑を歩んだ。

特筆すべきことは、明治33年(1900)3月、清国公使館附を命ぜられ、駐在武官として着任間も無い5月に義和団の乱が起こった。柴は居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ北京城篭城戦を戦った。柴は事前に北京城及びその周辺の地理を調べ尽くし、更には情報網を構築していた事から、各国篭城部隊の実質的司令官だった。

この事変後に、柴五郎は英ビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与され、ロンドンタイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。

大正8年(1919)陸軍大将に進み昭和5年(1930)に退役した。昭和20年(1945)の敗戦後、身辺の整理を始め9月に自決を図り、同年12月、その怪我がもとで没した。